黒木三千代『草の譜』(砂子屋書房)
第三歌集。第二歌集『クウェート』(1994)より約30年ぶりの歌集であり、かなり長い期間の歌を収録すると思われる。実際に詠んだ期間が長いだけでなく、歌集前半は子供時代の回想で、日記などをもとに描かれる早逝した父や作者を溺愛していたらしい祖父母を中心に、戦前戦後の時代を彷彿とさせる歌で構成されているため、より一層長い期間が一冊に含まれている印象を受けた。歌集最後はコロナ禍を詠った歌と2020年に亡くなった岡井隆への挽歌が収められている。
脳病みて祖父ありし夏お茶碗を砕いたやうな白さるすべり(P36)
記憶を詠った歌。祖父が夏の間脳を病んで伏せっていた。その夏の記憶として白いさるすべりの花を思い出す。内側が白い茶碗を割って砕いたようだ、と白さるすべりを形容する。無惨ではありながら、白さるすべりの花の姿に合う比喩だ。同時に、葬式で故人が使っていた茶碗を割って棺に入れる儀式をも想像させる。
家裏のヤブカラシのはなに来てゐたる虻の羽音よわが生(よ)濃きころ(P46)
祖父母に可愛がられていた幼い頃は毎日が充実していたのだろう。それを「生濃き」と表現する。家の裏にヤブカラシの花が咲いていて、そこに虻が来ていた。その虻の羽音に耳を澄ませていた記憶も忘れずに持っている。ヤブガラシの小さな花の愛らしさが幼い少女であった自らと重なって思われる。
夾竹桃咲かせて被服廠ありき わが知らぬ日をわれは記憶す(P62)
関東大震災で逃げ込んだ人々が火に巻かれて亡くなった被服廠跡。その時点で既に建物としての被服廠は無かったのだが、主体は被服廠の記憶があるという。そこに咲いていた夾竹桃の花も覚えている。自分の知らない頃のことを記憶しているような感覚を持つことは誰しもあるだろう。幼い頃に家族から聞いた話やテレビなどの映像が混ざって、覚えているような気持ちになる。この歌の場合はそれが4万人もの人が亡くなった災害と重なっているために不吉な印象がある。
花置くとかがめば見たり脱脂綿詰められし耳 友は死ににき(P101)
葬儀で「最後のお別れ」として棺の中に知人が花を置く。この歌でも友の葬儀で遺体のそばに花を置こうと主体はかがんだ。その時主体の目に、友の耳に脱脂綿が詰められているのが見えた。遺体の処理の一つだ。その瞬間、「友が死んでしまった」ということが実感として主体に伝わった。葬儀に参列しているのだから、もちろん友が死んだことはその時までにも分かっていたのだが、実感が無かったのだ。一字空けと結句の強調表現がその実感を読者に手渡してくる。
何をして食べてゐるのか分からない叔父などがむかしどの家にもをりし(P114)
教科書で読んだ北杜夫「おたまじゃくし」を思い出した。親世代のきょうだいの数が多かった頃は、その子から見て、まだ実家暮らしをしている叔父叔母という存在が普通にあったのだろう。学生の場合もあるだろうし、この歌のように何をして収入を得ているのか分からない場合もある。まだ親に養ってもらっているのか、兄姉の世話になっているのか。そうした曖昧な存在が家族の中にも地域社会の中にもいた。そんな時代が回想されている。
はじめからからだ無きやうな糸蜻蛉かき消え氷室神社(ひむろ)の池の睡蓮(P118)
氷室神社の池に咲く睡蓮に糸蜻蛉が来ており、主体はそれを眺めていた。まるで体が無いかのように細く、消え入りそうな蜻蛉。その蜻蛉が急にかき消えるようにいなくなった。どこかへ飛び去ってしまったのだろう。主体には最初からこの蜻蛉はいなかったように感じられた。今見ていた蜻蛉は現実だったのだろうか、と自分の意識を確認しているのだ。氷室神社という固有名詞が効いている。糸蜻蛉と睡蓮の風景が目に浮かぶようだ。
照れくさくさう言ふならむさうならむ雪の下には連翹のはな(P131)
前後から主体の息子が結婚することになったことが分かる。新しく妻になる人のことを息子が主体に言おうとしている。照れくさそうにそう言うのだろう、そうなのだろう。「そう」が何を指すか分からないことがこの歌を普遍的にしている。口では上手く表現できないけれど、相手に対する思いが息子にあることが、雪の下の連翹の花に喩えられている。
思ひ死にしたる聖(ひじり)が鬼となる然(さ)もあらむさもあらむ真椿(P148)
聖という立場のため人を恋する心を封印し、それゆえ益々思いが募り、死んでしまった。そして仏になることを目指していたはずの聖が鬼となった。何か今昔物語にでも出て来そうな話だ。それに対して主体は、大きく賛同している。聖という立場での思い死に、そして鬼となること、どれもいかにもそうだろう、と繰り返しうなずく。そしてその気持ちを真椿に告げている。真椿という語の持つ神聖な雰囲気に対して、思いで人は鬼になるのだ、聖でもそうだろう、と試すような気持ちがあるのかもしれない。
良いことの何にもなくて死ぬやうなむかしの人のなかのわが祖母(P158)
「むかしの人」は今と違って働くだけ、楽しいことは少なく、また人生は楽しむものだという発想も無かった。そんな「むかしの人」の一人である祖母。自分を可愛がってくれた祖母を思い、祖母の人生は何だったのだろう、祖母自身にとって良いことはあったのか、と問い直しているのだろう。
歳月は髪膚(はつぷ)傷めて過ぎゆけり取返しつく何もなきなり(P170)
誰に対しても時間だけは平等に、そして容赦無く過ぎて行く。何の感慨も無く年を重ねたとしても、次第に身体機能は衰えていき、それが取返しがつかないことにある日気づく。この歌に即して言えば、取返しのつくことは何も無いのだ。全て取返しがつかない。それが年を取るということ。身体機能が衰えて初めて、人は自分の老いの否応無さに向き合うのだ。
砂子屋書房 2024.1. 定価 本体3000円+税