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【書籍レビュー】『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』

今回は、2024年6月に毎日ワンズから出版された『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』について、レビューします。

この書籍は、三淵嘉子が担当したいわゆる「原爆裁判」に焦点を当てた内容となっています。

【三淵嘉子】

まず、三淵嘉子について解説します。

三淵は2024年のNHK連続テレビ小説(通称「朝ドラ」)「虎に翼」の主人公のモデルになった人物で、日本の女性として初めて弁護士、判事、裁判所所長となり、法曹界で大いに活躍しました。

三淵嘉子

三淵は父が台湾銀行に勤務していた影響で1914年(大正3年)11月にシンガポールで生まれます。

当時、女性は結婚して家庭に入るのが当たり前とされていましたが、三淵は法律を学ぶことを志し、1932年(昭和7年)に明治大学専門部女子部法科に進学します。

この時、三淵の母は「法律を勉強しては嫁の貰い手がなくなる」と泣きながら猛反対したと言われています。

ちなみに、当時の弁護士資格は「成年以上ノ男子」のみに限定されており、この頃には、これを改めて女性も弁護士になれるようにしようという流れが起こっていました。

そして、三淵が明治大学専門部女子部法科に進学した翌年の1933年(昭和8年)に弁護士法が改正されて女性も弁護士になることが認められました。

1935年(昭和10年)に女子部法科を卒業した三淵は明治大学法学部に進み、卒業生総代を務めるほどの優秀な成績を修めます。

1938年(昭和13年)に女性として初めて司法試験(高等文官司法試験)に合格し、女性初の弁護士となる資格を得ました。

ちなみに、この年は三淵の他に中田正子と久米愛も司法試験に合格しており、一度に3人の女性が合格するという快挙が起きていました(合格者総数242名)。

左から久米愛 、武藤嘉子、中田正子、片山哲(1939年)/写真:鳥取市歴史博物館

1940年(昭和15年)に第二東京弁護士会に弁護士登録し、晴れて日本初の女性弁護士となった三淵ですが、第二次世界大戦の影響で民事事件の数が減少し、弁護士としての活動がほとんどできず、母校の女子部法科で助手や助教授となって後進の指導に当たりました。

この頃、三淵は結婚して夫と子どもがいましたが、1946年(昭和21年)に夫が戦病死し、翌47年には両親も相次いで急死します。

戦争の影響で弁護士としてほとんど活動できなかったことに加え、戦前に司法官になれるのは「男子に限る」とされていたことへの反発もあった三淵は、裁判官になることを志します。

1947年(昭和22年)3月、司法省に裁判官採用願を提出した三淵は司法省嘱託として民事部民法調査室に配属されます。

立法作業に携わり、最高裁判所の民事局や家庭局での勤務を経て、1952年(昭和27年)に名古屋地方裁判所で初の女性判事となりました。

1956年(昭和31年)に最高裁調査官であった三淵乾太郎と再婚して三淵姓となり、1972年(昭和47年)には新潟家庭裁判所所長に就任します。女性が裁判所所長となるのは初めてのことでした。

その後、浦和家裁所長、横浜家裁所長を歴任して定年退官し、1984年(昭和59年)に69歳で亡くなりました。

三淵は家裁裁判官時代に心のこもった「説諭」を行うことで有名で、三淵の担当した事件にはほとんど抗告がなかったと言われています。

本書はそんな三淵が1956年に東京地裁判事に就任し、その時に担当した「原爆裁判」にフォーカスした書籍です。

【原爆投下と原爆裁判】

まず、アメリカが行った日本への原爆投下について解説します。

1941年(昭和16年)12月8日、日本軍がアメリカ太平洋艦隊の拠点である真珠湾を攻撃し、日米が戦争状態に突入しました。

攻撃で爆沈した戦艦アリゾナ

この攻撃により、日本は戦艦4隻、航空機188機を破壊し、アメリカ側に2400人を超える死者を出しました。

その後も日本の快進撃が続くものの、1942年6月のミッドウェー海戦での敗北を機に戦争の主導権は徐々にアメリカに移っていきます。

攻撃を受ける日本海軍の空母飛龍

1943年(昭和18年)には同盟国のイタリアが降伏し、1945年(昭和20年)5月には同じく同盟国のドイツが降伏しました。

日本各地は空襲に見舞われて多くの民間人が死亡し、日本の敗戦は必至の状況でした。

1945年7月、連合国は日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表します。

ポツダムに集まった3ヶ国首脳(左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連首相/1945年7月)

ただ、日本政府がこれを“黙殺”したため戦争は継続し、8月6日には広島に、8月9日には長崎に原子爆弾が投下されました。

これにより、広島では14万人、長崎では7万人の命が失われ、終戦後も放射線によって多くの人々が亡くなり、苦しむこととなりました。

広島に投下された原爆

この頃、アメリカによる原爆投下のみならず、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告しており、このまま戦争を継続すれば日本が壊滅するのは火を見るよりも明らかな状況でした。

そして8月14日、昭和天皇の聖断によってポツダム宣言の受諾が決まり、8月15日、玉音放送によって国民に終戦が伝えられます。

御前会議

ちなみに、ソ連はポツダム宣言を受諾して日本が降伏した後も攻撃を続け、8月18日に日本領であった占守島に上陸し、千島列島各地の占領を開始します。

8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島を占拠し、9月3日には歯舞群島に到達しました。

これは日本が降伏した後の蛮行であり、かつ9月2日には戦艦「ミズーリ」上でソ連代表も参加して正式に降伏文書の調印式を行っています。

戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名する重光葵外務大臣(1945年9月2日)

ソ連はその調印式の後も侵攻を続けました。また、ソ連は北海道への侵攻も目指していたことが明らかになっています(後に計画を中止)。

話を原爆に戻します。

多くの民間人を瞬時に殺戮した原子爆弾は、紛れもなく非人道的な大量破壊兵器です。

長崎に投下された原爆

1955年(昭和30年)、広島と長崎の被爆者5人がアメリカの原爆投下を国際法違反とし、被害者への補償を求めて国を相手に訴訟を提起しました。

この裁判は弁論準備などの手続きを経て、1960年(昭和35年)から裁判が結審する63年(昭和38年)までの間に9回の口頭弁論が開かれます。

この9回の口頭弁論全てを担当したのが三淵嘉子でした。

この裁判が提起された1955年は、原爆投下、そして終戦からまだ10年であり、サンフランシスコ平和条約によって日本が主権を回復してからはわずか3年しか経っていません。

日本各地に戦争の傷痕が残っており、日本の国際的地位やアメリカの対日感情も今よりだいぶ違ったものでした。

そんな状況下でアメリカの原爆投下に関する裁判を担当することは相当な重圧だったはずです。

この裁判の判決では、損害賠償請求そのものは棄却されたものの、日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と断じ、被爆者への救済が必要と強調しました。

原爆投下後の広島

この判決を経て「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」が制定され、1994年(平成6年)には「被爆者援護法」が制定、国の責任により被爆者への総合的な援護が行われることとなりました。

三淵が関わった「原爆裁判」は、被爆者救済への一里塚となりました。

本書には、「原爆裁判」の判決文が全文載っており、アメリカの原爆開発の過程やなぜ広島と長崎に投下されたのかなどが詳細に書かれています。

原爆がいかに恐ろしい兵器であるか、そしてその投下を決断したアメリカ大統領の政治的思惑や日本人への差別感情などが生々しく描写されています。

原爆はどのように開発されたのか、アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか、原爆投下に正当性はあったのか、など幅広く考えさせられる内容となっています。

以上、今回は毎日ワンズから出版された『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』のレビューでした。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇

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【参考文献】 『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』山我浩,毎日ワンズ,2024年

書籍はこちら↓
https://x.gd/QLH23


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