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今川家の女傑「寿桂尼」
2017年の大河、柴咲コウ主演の「おんな城主 直虎」で浅丘ルリ子さんが演じた「寿桂尼」を憶えていますか?
気品と威厳を兼ね備えた演技は素晴らしかった!
彼女こそ、夫の氏親、息子の氏輝や義元、そして孫の氏真の4代に渡る約50年もの間、陰で支え、今川家を取り仕切っていた女戦国大名と言われた人なのです。
正直なところ、直虎より大河の主役に匹敵するかもしれません。
義元が今川家を継いだことで盤石だと思われていたのが「桶狭間の戦い」の敗戦で一変してしまいました。
ーもう安心ー
と思った矢先のどんでん返しを食らったのですから。
今回は昨年の「鎌倉殿…」の北条政子を超えるほどのイチオシの政治家「寿桂尼」の波乱万丈人生をまとめてみたいと思います。
今年の「どうする…」では、まさに今、今川家は彼女の采配で動いている最中なのですが、完全スルーのようですね。
「どうする家康・スピンオフ」として楽しんでいただけたら嬉しいです。
駿河の尼御台、ここにあり
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出身は公家
女傑とか女戦国大名とか後世にまで異名が残る彼女ですが、意外にも公家出身です、
父親は権大納言・中御門宣胤で、藤原北家 勧修寺流 の公家貴族の出身なのです。
生年は不明で、駿河今川家、9代・今川氏親の正室として嫁いだ年月日も1505年とも1508年とも言われて定かではなく、その時点での年齢も不明です。
夫・氏親との間には4人の息子と3人の娘という7人の子を成し、夫婦仲は良く、ちゃんと跡取りを産み、正室としての役割も果たしています。
夫は寝たきり
夫の氏親は、晩年の約10年間、中風を患い寝たきり状態となります。
中風は現在では脳血管障害(脳卒中)の後遺症(偏風)である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す言葉として用いられている。
1526年、55歳で氏親はこの世を去り、出家して「寿桂尼」という名になったのはここからで、それ以前の彼女の名はわかっていません。
今川仮名目録
今川家では東国において最古の分国法であり、戦国大名の定義や法律を細かく取り決めた「今川仮名目録」が制定されています。
氏親が亡くなる2ヵ月前に、手際よく制定されたようですが、これに寿桂尼がかなり関わっていたと言われています。
その主な理由として、
・女性が使う仮名交じりの文だった。
・身体的に不自由な氏親に政務は無理だった。
・嫡男の氏輝は、まだ14歳で政務に関わるのは不自然。
夫没後に跡を継いだ10代・氏輝はまだ14才と幼く、以後、彼女が政務を代行します。
彼女による発行文書は25通残っているのですが、うち13通が氏輝の代のものでした。
これだけでも精力的に取り組んでいたのが解りますね。
この仮名目録は、氏親の代で制定され、氏輝の代から使用され、義元の代では項目が追加され、今川家独自の法律となり、他家がお手本とするぐらい完成されたものになりました。
「死しても今川の守護たらん」
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同日に長男と次男が他界
1536年3月17日、後を継いだ氏輝と、次男・彦五郎が突然亡くなります。
原因はまったくわからずじまいで、いまだに様々な憶測がなされています。
・毒殺説
一番考えられるのは毒殺ですが、
北条氏の小田原城の歌会へ招かれた直後の事なので、真っ先に北条氏を疑うべきですが、寿桂尼の娘を嫁がせたばかりで両家の関係は良好だった上、北条氏はいち早く病気治癒の祈祷までしているので考えにくく、武田家の間者によるものかという説もあります。
・自殺説
当主となった氏輝がプレッシャーのあまり図った可能性もありますが、同時に次男の彦五郎までだと不自然です。
・疫病説
2人とも病に臥していたという記録はなく、同日に亡くなるほどの即効性のある疫病は考えられません。
私としては、前回も書いた通り、義元の教育係兼軍師の太原雪斎の何らかの暗躍があったのではないかと妄想しています。
かくして、寿桂尼の三男であり、夫の氏親にとっては五男である義元が跡を継ぐことになるのです。
ここにも歴史の大きな不思議がありますね。
普通ならまず跡取りにはなれない。
現に早くから出家して栴岳承芳と名乗っていたのですが、還俗して「義元」と名乗り、今川家の11代当主となるのです。
武田はキライ、北条はスキ
しかし、これで安泰と言う訳ではありませんでした。
実は側室が生んだ氏親の三男・良真との家督争い「花蔵の乱」が勃発します。
あろうことか寿桂尼は我が子の義元ではなく、側室腹の良真の側に付いたのです。
実はこれには近隣の武田家と北条家が関係しています。
・寿桂尼ー北条家を支持
・義元 ー武田家を支持
寿桂尼は長男と次男を武田が毒殺したと思っていたようで、たとえ我が子であっても武田を支持する事は許せなかったようです。
彼女は大変な政略家でありながら、やはり母としての思いを捨てきれない複雑な感情だったようですが、義元も我が子では??とも思います。
実は義元は寿桂尼の子ではなかったという説もあるため、この辺りの彼女の細やかな心情も読み切れません。
義元戦死後にも手腕発揮
義元VS良真の跡目争いは太原雪斎の施策もあり、義元の勝利で決着します。
今川義元と太原雪斎は、争いをくり返してきた武田と和睦し、その後、武田信玄の娘を正室に迎え入れて良好な関係を築きます。
やがて北条氏も含む甲斐・相模・駿河で三国同盟も結び、安心して西へと侵攻できる地盤を固めました。
領土経営が安定した今川家には、配下に従えた家々から多くの人質が送り込まれ、彼ら(彼女ら)を大切にもてなし、監視していたのはこの寿桂尼でした。(徳川家康もそのうちの1人)
この頃が彼女にとってある意味心身共に安定していた時期だったのかもしれません。
武田信玄も一目置く
義元が、桶狭間で織田信長という戦国ルーキーに敗れて討死した事は、今川にとってまさしく「青天の霹靂」でした。
今川家のカリスマ的存在だった義元を失って大混乱に陥りますが、
それに落ち着いて対処し、まとめあげたのは全て寿桂尼でした。
彼女が嫌っていた武田信玄は、
「寿桂尼が生きてるうちは駿河を攻められない」
と言っていたという伝聞が残ります。
実際に1568年に寿桂尼が他界すると、待ってましたとばかりに駿河への侵攻を始めるのですから、単なる伝聞ではなく本当の事だったようですね。
今川家の事実上の滅亡
今川家を実質取り仕切っていたゴッドマザーの寿桂尼、生年が不明なので確定できませんが、享年はおそらく80歳前後だと推測されます。
亡くなる直前まで今川の将来を悲観した彼女は、
「死しても今川の守護たらん」と言葉を残し、今川館の鬼門(北東)に葬るようにと指示して世を去りました。
彼女の墓は、谷津山の北麓にある龍雲寺にあり、本来の正室であれば北西にある夫・氏親の菩提寺・増善寺であるべきなのですが、これは彼女が「妻」であるより「今川」の家そのものを取ったという事になります。
孫の氏真では心もとなかったのでしょう。
今川の行く末を心配したままだったのがよくわかります。
残念ながら、その予感は的中します。
西から徳川家康、東から武田信玄が侵攻して、寿桂尼の墓も破壊され、宗主・今川氏真は駿河国を捨て、結局は北条氏を頼って相模国へ逃げ伸びます。
この時点で戦国大名としての今川氏は滅亡となりました。
これを寿桂尼が見ずに済んだ事は、せめてもの救いであったと思います。
かつて義元の時代には「東の都」とまで言われた美しかった駿府の栄華は瞬く間に跡形もなく消滅したのです。
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出典:Wikipedia
やっぱり歴史は続いている
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もし井伊家が潰されていたら?
「おんな城主 直虎」を観ていた当時、この寿桂尼の胸一つで、井伊家も存続の危機にさらされていたので、もし滅亡していたら、その後の歴史は大きく違っていたなと妄想したものです。
ずっと時代は下って幕末、徳川幕府・大老の井伊直弼は存在せず「安政の大獄」もなかったはずで、それによって処刑された有能な人たちが死ぬ事もなかったのです。
合計8名が処刑あるいは捕縛後死亡しましたが、主な者を挙げると、
・吉田松陰ー「松下村塾」29歳
・橋本佐内ー「適塾」出身 25歳
・頼三樹三郎ー儒学者。「日本外史」の頼山陽の三男。
頭脳明晰で優秀な彼らがもし生き続けていたなら、明治維新もまた違った形になっていたかもしれません。
そう思うと、どうしても「歴史の不思議」を思わずにはいられず、彼らの役割はここで終えるべきものだったのか?と疑問を感じてしまいます。
戦国での史実は、後世に大きく影響しているのをここでも感じずにはいられません。
※トップ画像はイラストACより
【参考文献】
・武将ジャパン
・Wikipedia
・今川のおんな家長 寿桂尼
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