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文献から見える「光る君へ」の時代背景
「妾」ではなく北の方がいい~!」
「二人で駆け落ちなんていや~!」
あれでは結局、玉の輿が目当てみたいで道長が怒っても当然だと思います。
「まひろさん、道長さまの北の方になりたいなんて厚かましいですわよ。」
by倫子
まひろは何を勘違いしてるんだろ?
「恋は盲目」とはこのことか⁈
それに新天皇即位の日の高御座にあった子供の生首。
怪事件ですよね~!
誰の首かはわかりませんが、失脚した花山天皇の側近、藤原義懐(高橋光臣)らの仕業でしょうか?
いろいろ気になるところではありますが、今日は「光る君へ」の時代考証を担当する倉本一宏氏による記事、ステラnetがあまりにも興味深く、この源氏物語が生まれた背景についてまとめたいと思います。
平安貴族は忙しい
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平和な時代だった
考えてみると対外戦争も内戦もないこの時代は、平和で穏やかな時代だったと言えます。
島国ということもあり、日本は天智2年(663)「白村江の戦」から天正20年(1592)の秀吉による「朝鮮出兵」まで実に929年もの間、外国との戦争が起こっていないのです。
(1274年の「元寇」は防戦のみだったので省いています)
この時代は、権力や領土争いで簡単に人を殺して首を取ったり、戦のたびに田畑は荒らされて食物も育たなかった戦国時代のような内戦もなかったのです。
794年に桓武天皇が平安京に移り、1185年の鎌倉幕府創立までの約390年間の平安時代は、王朝国家として平和を維持できた時代だったわけです。
実は激務の平安貴族
平和な時代だったからこそ、平安貴族は視野も狭く自分たちの地位と権力ばかりに固執していたのかもしれません。
そして、実務などはしていないように見えますが、果たして実際はどうだったのでしょうか?
貴族の最重要の仕事は神社仏閣での宗教的なイベントなどの国家行事として盛大に執り行う公式行事でした。
・端午の節句
・七夕
・8月の十五夜
例えば先日の「五節の舞」もその一つで、それら行事をつつがなく終えるために、上流貴族たちは事前の運営会議を頻繁にしていたのです。
平安貴族の服務規程をまとめた『延喜式 陰陽寮』によれば、1日3時間半から4時間半ほど
一日たったの平均4時間勤務だなんて、やっぱり楽ちんじゃないか。
表向きにはそう思ってしまいますが、実は上記はほんの一部の上級貴族のみで、中・下流貴族はそうはいきません。
その激務ぶりをまとめると
・日勤15日、夜勤5日が計20日が最低ライン
・警護担当の時は不規則な勤務時間になる
・実質は7〜12時間になる勤務時間
ひと月最低20日勤務のうち夜勤もあるので、1日12時間のぶっ通し労働もあったという過酷な労働条件でした。
その上、5月や8月に取る長期休暇は、それぞれの「田植え」のためで、機械も薬剤もない当時の農作業は大変な重労働だったと想像できます。
上流貴族も遊んではいません。肉体労働が少ない分、勤務時間外で皇族のお世話や、公務に関する具体的な指示を出すために、常に全体の行事を把握していなければなりません。
道長の良き相談相手、藤原行成(渡辺大地)が残した日記「権記」によると、一条天皇の四十九日の御法会で早朝から深夜に至るまで事務仕事をした時の気持ちが書かれています。
『夜中まで働くと気がおかしくなる』(原文は『終日、営役の人、心神穏やかならず』)と泣き言をにもらしています
※一条天皇は1011年、31歳で崩御
目に見えた仕事をこなしながら、今作の藤原兼家ファミリーのように裏の権力争いにも気を配る日常は、心身ともにフル活動したものだったでしょう。
江戸時代の武士よりもずっと仕事をしている
ステラnet
まったくその通りで、江戸時代、戦の無くなった太平の世に武士の出番は皆無の上、かといって戦以外は何もできず、しかも人口は多い。
ただの「ごくつぶし」が増える事で、幕府の屋台骨を揺るがす元凶となり、
そして「倒幕」~「明治維新」へと繋がりました。
源氏物語の誕生秘話
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倉本一宏氏によると、ベールに包まれた紫式部の人生も当時の史料からある程度見えてくると言われています。
紫式部の人生は3ステージ
その人生は大まかに3つに分かれ、それぞれに転機がありました。
第1ステージ
歌集「紫式部集」より
少女時代から夫との死別まで。
転機は「夫の死」。
大河では今のところまだこの段階の前半なので、まひろの人生は序盤の中の序盤だといえます。
第2ステージ
「源氏物語」と「紫式部日記」より
執筆活動の時期。
特に「紫式部日記」は第一級史料です。
道長(柄本佑)の娘、中宮彰子の出産シーンは、かなり詳細に書かれていて男性が知る事のないものだけに、おそらく道長からの指示があって書いたと想定されています。
第3ステージ
「小右記」より
中宮・彰子の最側近女房を自覚した時期。
そして興味深いのが藤原実資(ロバート秋山)による「小右記」です。
実資が中宮・彰子を訪ねるとき、必ず取り次いでくれる女房の事を「越後守為時女」という具体的な記述があります。
“前々からこの女を介して取り次ぎを頼んでいた”
さらには、実資自らが望んで為時女に取り次いでもらっていたのです。
この「為時女」とはまぎれもない紫式部の事。
公卿が中宮を訪ねるときは、それぞれに贔屓の女房が居て、必ずその人に取り次いでもらうため、不在の場合は出直していたようです。
実資が贔屓にした女房の名をわざわざ記しているのを見ると、よほど紫式部の事がお気に入りだったのでしょう。
同時に、この頃には「源氏物語」で名声を得ていた紫式部でしたが、誠心誠意、側近女房として尽くしていたのが伺えます。
道長の名プランナーぶり
道長の娘の彰子が一条天皇の后となった時には、すでに道長の兄・道隆(井浦新)の娘・定子が皇后だった上、その他3人の女御も入内しており、まだ12歳の彰子などまるで相手にされない状態でした。
そんな彰子がついに懐妊したのが寛弘5年(1008)の事で(のちの後一条天皇)、ちょうど同じころに「源氏物語」が文献として初めて出されています。
これは偶然ではなく、道長の巧みな陰謀プランであることは間違いありません。
一条天皇の皇后や女御たちの中から、娘の彰子が抜きん出るために「源氏物語」は天皇の気を引く絶好のアイテムでした。
しかも少しずつ書かせて、天皇が彰子の元に頻繁に訪れるようにし、ついに皇子誕生へと繋がったのです。
紫式部はそれまでの自分の経験からヒントを得て書き始めたのが、夫との死別後の少なくとも1001年以降で、その評判を伝え聞いた道長が、彼女をスカウトしたようです。
道長は間違いなく一条天皇に読ませるために、意図を持って「源氏物語」を書かせています。
それにしても、彼の陰謀プロデュースがないと「源氏物語」は世に出なかった可能性もあると思うと、一番の貢献者は道長かもしれません。
「源氏物語」の光源氏も、表向きはとんでもない自信家のプレイボーイで、時には腹の立つ存在ですが、その裏には皇位継承も絡んだ権力争いもあります。
父の兼家と同じく、自分の娘を国母へと導くことは、絶大な権力を握る事に繋がり、そのためにはどんなものも利用する道長の執着心を紫式部も近くで見ていたわけで、それが作中にもふんだんに取り入れられています。
光源氏のモデルの一人が道長であると言われていますが、彼の権力闘争にラブストーリーを添える事で、立体感のある壮大な物語となっているのを見ると、道長の存在なくしては誕生しなかったことだと実感できるのです。
ドラマはあくまでも創作
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女性と男性の史料は根本的に違う
この時代の史料は書き手が男性か女性かによって、その内容はかなり違うようです。
男性の日記は“記録”。女性の日記は一般的に物語要素が強い
藤原実資の「小右記」、
行成の「権記」、
道長の「御堂関白記」など、
それらはそれぞれ特徴はあるものの、出来事を比較的忠実に書きながら、たまに上記の行成のように心のつぶやきが見えたりする程度です。
それに対して、
和泉式部の「和泉式部日記」、
菅原孝標女の「更級日記」、
藤原道綱母(財前直見)の「|蜻蛉《かげろう》日記」など、
その当日ではなく後日、自分に都合の良いようなストーリーに仕立て上げているのです。
紫式部の「紫式部日記」は彰子の出産部分だけが記録の要素が強いので、それ以外はやはり物語性があるようです。
和泉式部のキャストがないのですが、
まさか出ないってことはないよね??
これほど個性のある人はいないのだけど💦
あり得ない設定もドラマだからこそ
日記から紫式部は内気な性格であったようで、名前が「まひろ」である事も、幼少期から道長と知り合いだったのも、何の確信もないどころか、ほぼあり得ない事です。
しかし、あくまでも可能性はゼロではなく、僅かな史料から想像を巡らせたひとつの創作パターンであることを念頭に入れて視聴すべきなのです。
決して彼ら彼女らの「人となり」を決定付けているわけではありません。
ですから大河を観て、あるいは史料を読んで、自分なりの見解を持つことは自由なのです。
貴族から武士へ
やがて時は経ち、平氏から平清盛が台頭して1167年には太政大臣にまで上ります。
さらに娘の徳子を入内させて皇子(のちの安徳天皇)を産んだことで天皇の外戚として権勢をふるうあたりは、まるで藤原氏の兼家や道長のようです。
ただし、この時はまだ武家が貴族になり替わっただけのことで、あくまでも朝廷内の権力争いに過ぎませんでした。
やがて平家は清盛一代で源頼朝に滅ぼされ、鎌倉幕府という朝廷とは別の武士の政権の誕生に至りました。
このあたりの流れは、
「光る君へ」→「平清盛」→「鎌倉殿の13人」→「太平記」
という順番で一気に見ればわかるでしょうね。
ただし、目は血走りますが💦
時代は流れて戦国時代を経て江戸時代へと移りますが、「平安時代」という雅できらびやかで平和な時代が390年も続いたという事実は驚くべきことなのです。
常に「戦」がつきものの大河でしたが、今作品にはその派手な「戦」はありません。
その点では少々退屈なものかもしれませんが、その裏のギラギラとした野心の存在をかみしめながら、趣向を変えた今作の行方を追いたいですね。
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