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13人の選出基準の不思議

NHK大河・「鎌倉殿の13人」も頼家の代となり、いよいよタイトル通りの本編に突入しました。
早速、梶原景時を引きずり降ろす策略がめぐる展開となり、つくづく坂東の御家人というのは内輪揉めが好きな人種らしい。

13人の選出に関しては、三谷幸喜さんお得意のコミカルなテンポで描かれ、まるでノリで決めたかのような展開でした。

しかし実際の選出基準とはいったいどのようなものだったのでしょうか?

今後の「鎌倉殿…」をさらに面白く見るために、選ばれた人物たちを整理しながら、その判断理由を考えてみました。



権限は訴訟案件のみ

13人のメンバーは以下の通りです。

Wikipedia

頼家が鎌倉殿となったのは、建久10・正治元年(1199)正月のことです。
その4月には訴訟に関してのみ、頼家が直節判断せず、上図の13人の話し合いで決めるようにしました。

頼家が気分を害するのも当たり前で、13人もの人数といい、顔ぶれといい、新しい鎌倉殿を助けようというよりは、制約しようという体制に見えます。

しかし、これらの13人の権限は、地元の御家人たちの揉め事による訴訟案件のみで、鎌倉幕府の全ての政務を決めるわけではなく、そのうちの一部の事だけなのです。

13人中のほとんどが地元の有力御家人たちであり、いわば自分たちの裁定を自分たちを含む全員の意見で執り行うものなのです。


各地の豪族を集めたか?

問題は、13人の構成基準です。文官の4人は、幕府の実務を動かすのに欠かせないメンバーとしても、残りの9人はどのような理由で決まったのでしょう。

まずは、各御家人の知行地からまんべんなく選んだのでしょうか?

駿河するが遠江とおとおみ―北条時政
伊豆ーーーー北条義時
相模ーーーー三浦義澄・和田義盛・梶原景時
武蔵ーーーー比企能員ひき よしかず・足立遠元
三河ーーーー安達盛長
常陸ひたちーーーー八田知家(元・下野しもつけ)

世界の歴史マップ

これらから気になるのは足立遠元あだちとおもと(大野泰広)と八田知家はったともいえ(市原隼人)です

頼家の乳母父である比企能員ひき よしかずはわかりますが、武蔵からもう一人、足立遠元はなぜ?
北条義時の異母弟・北条時房の正室として娘を嫁がせているという、縁戚関係からなのか?

八田知家に関してはHPには、北関東代表とありますが、その手前の下総しもうさ上総かずさ安房あわからは誰もいないのに、それより遠い常陸の御家人の知家だけがなぜ?


各地域別に選んだのではなさそうです。

ではいったい何基準なのでしょう?
まさかドラマのように、いきがかかり上仕方なくというもではないはずです。
多数決を採ることもあるので奇数であるのには納得できますが、それにしても13人という人数は多いようにも思います。



選考基準を考えてみる

上記のメンバーを見る限り、少なくとも、幕府への貢献度や勢力の大きさで選んだようにも見えません。

当時の政治情勢を考慮して、出身地や縁戚関係などのパワーバランスを取っていたのかもしれません。
訴訟にはお互いの利害関係が存在するので、見方が偏らないよう公平な判断ができるメンバーだったはずです。

ここからは勝手な妄想ですが、しばしお付き合いください。



「吾妻鏡」の空白の真相を知る者たちなのか?


この時代の史料として残る「吾妻鏡」は、不思議な事に一番肝心なところが欠落しています。この事を脱漏だつろうと言います。

建久7(1196)年から建久10年1月までが欠けていて、
突然、建久10年2月6日、頼朝の長男の頼家が鎌倉殿となったという記述になっているのです。

このポッカリ空いた三年間にあった主な事は次の通りです。
・建久7年(1196)ー九条兼実失脚 (建久七年の政変)
・建久8年(1197)ー大姫死去
・建久8年(1197)ー源頼家が爵位を授かる
・建久9年(1198)ー後鳥羽天皇、土御門天皇へ譲位、上皇となり院政を敷く
・建久9年(1198)ー源頼朝、橋供養の帰路に落馬
・建久10年(1199)ー源頼朝、死去(1月)

そして、前述の通り、頼朝死亡の1ヵ月後の同年2月に頼家が鎌倉殿となっているのです。

不自然なほど、一番必要な所がない!

もしかしたら何らかの理由があって、幕府は頼朝の死の真相を意図的に隠蔽しているかもしれません。
そして、合議制メンバーの13人はその真相を知る者たちであるという憶測も出来ます。

後世に残せない「理由」があったのではないか?

もしかしたら、頼朝は御家人たちに粛正された可能性も否定できないのではないか??

この後の展開を考えると、その「理由」は何としても隠さなければならないもので、後に鎌倉幕府の執権となった北条氏は大きな鍵を握る「黒幕」の可能性は高いのではないか。


時代は下って、江戸幕府を起こした徳川家康が、意図して脱漏だつろうしたという話も伝わっています。

鎌倉幕府の仕組みをお手本にして幕府を創建した家康にとって、頼朝は尊敬してやまない武将だったようです。

後年、6代将軍・家宣時代の朱子学者・新井白石は、徳川家康は頼朝のイメージダウンになる箇所を捨てさせたと言い残しているのです。

イメージダウンとは?
単に武家の棟梁が落馬した事なのか?
それとも
他に決定的な恥事件があったのか?

時代を越えてまで隠し通した、当時の武士の恥とは何?



頼朝の乳母たちの権勢なのか?


頼朝には、驚くことに複数人の乳母が存在していたと伝わり、
比企尼ひきのあまの他、寒河尼さむかわのあま山内尼やまうちのあま、三善康信(小林 隆)の伯母が挙げれらています。

しかし三善康信の伯母は他の誰かと同一人物ではないかと考えられているので、実質3人ではないかという事です。

3人の乳母を付けるとは、父・義朝にとって頼朝はよほど大切な嫡男だったようです。

Wikipedia

それらの事をふまえて、選出された13人を見ると、上記で疑問に感じた足立遠元あだちとおもと(大野泰広)と八田知家はったともいえ(市原隼人)に関しては、頼朝に尽くした乳母の家系だという理由が浮かび上がります。


比企尼ひきのあま

草笛光子さん演じる彼女は、単に乳母というだけでなく、頼朝の流浪時代の20年もの間、支援し続けた最大の功労者で、実母に近い感情で接した女性でした。

その上、実の娘たちの婿にそれぞれ頼朝を支えさせるのです。
・長女ー安達盛長(野添義弘)
・次女ー川越重頼かわごえしげより(娘が義経の正室となるも後に誅殺)
・三女ー伊東祐清(頼朝に誅殺された祐親の次男。のちに平賀氏へ再嫁)

現在、北条時政と対立している比企能員ひき よしかず(佐藤二郎)は彼女の甥にあたり、養子となっています。

能員よしかずは、平家が権勢の時には、頼朝を支える義母の行動を疎ましく感じていたのが、頼朝が勝利を収めたとたん、掌を返したような態度が面白かったですね。
さらに、次の鎌倉殿・頼家に娘を嫁がせて、その嫡男の乳母父となっています。

以上の事を考えると、この時点での権力は北条家ではなく、圧倒的に比企家にあるので、佐藤二郎さんの態度がデカくて当たり前なのです。


寒河尼さむかわのあま

頼朝とは9歳だけ年上であるため、乳母というよりは姉のような存在で頼朝を支え続けたのでしょう。

下野しもつけの御家人・八田宗綱の娘で、八田知家はったともいえは弟にあたります
後には同じ下野しもつけの最大豪族・小山政光の後妻となり、その末子として生まれたのが結城朝光ゆうきともみつ(高橋 なお)なのです。

政子の妹・実衣みいの琵琶の手ほどきをしながら、梶原景時を陥れる策略のきっかけとなりましたね。

彼女は、頼朝より「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒河郡と網戸郡の地頭に任じたのをみると、その信頼の篤さが伺えます。
頼朝生存中の文治3年(1187)のことでした。


山内尼やまうちのあま

彼女の子・経俊つねとしは、頼朝挙兵時には味方せず、石橋山の戦いでも敵対し、頼朝に直接矢を放ちました。

山内尼が助命を願うため頼朝を訪ねますが、鎧の袖に立っている矢に経俊の名が記されてあり、彼女は懇願できずに涙ながらに立ち去りました。

しかし、それでも。

後程、経俊は許され、伊勢と伊賀守護という厚遇を受け、御家人として頼朝に臣従しているのです。

情け容赦のない粛正を命じるくせに、老母の悲歎を汲むことは出来るのですねー!


乳母たちの権勢が後々にまで尾を引いているのを見ると、それだけ育ての親への情は深いと言う、当時の武士たちの道徳観がわかりますね。


◇◇◇

さて、三谷さんはこれらの不自然な事の答えがわかるような「辻褄合わせ」をするのでしょうか?

以上の坂東武者たちの複雑に絡み合った憶測や関係性を念頭に置いて、今後の大河ドラマを見ると、さらに面白くなりそうですね。




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【参考文献】
こだわり歴史塾
『吾妻鏡』空白の三年間
「吾妻鏡」の空白に果敢に挑戦
Wikipedia
「鎌倉殿の13人」登場人物





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