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「みんなそうだよ」って今日だけは言わないで。

精神的に体調が不安定ででも動けないほどじゃないからとひぃひぃいってキッチンで食品トレーのぬめりを洗い流しながら思う。凄いなみんな。これと戦っているのか。

受け入れている、抗っている、共に在る、壊されている、表現は何でもいい。でも今、これを“体感”している。その凄さに打ちのめされる。本来は体験したうえで何を成すかで人間の質を問われるのだろうが、「体感している」ただそれだけのことで、仰ぎたくなる。

「これ」とは適応障害でもパニック障害のような精神疾患でもいいし、人生で一番つらい体験直後みたく尋常じゃない不安定感でもいい。私の場合は何年も前にうつ状態でメンタルダウンしたので、後遺症というか、発症以前/以後で肉体的な体力と精神的な体力の両方の不具合(宿命的で突発的な著しい不調)が避けられなくなった。

我ながら、限られた精神と肉体の幅で一人暮らしと働くをよくやっているなと思う。それでもたまに誰ともない誰かに気持ちをぶつけたくなることもある。このフィジカルでやってみるとやばいよと、暴言を吐きたい気持ちになる。

食品トレーを洗い終えて排水溝の掃除を始める。一心不乱にゴシゴシしてくれるのは身体だけで、心は乱れに乱れたままだ。健康な人はいいなぁ、と羨みよりも妬みが強くなっていると気づいて、今日は誰かに連絡をしてはいけないと強く思った。

今日は連絡した誰かから「みんなそうだよ」と言われるかもしれない。人はそれぞれ何かしらあるのは分かったうえで、それにしても今日はしんどすぎると話すわけだから、みんなそうだよと言われると心が乱れているほど鈍器の威力が増す。

誰かを励ます言葉のテンプレートとして「みんなそうだよ」を使う人には、きついときにはそもそも話しをしない。一番怖いのは、ある程度受け止めてくれそうな人に、過剰に話してしまって相手をうんざりさせてしまい、ちょっとした苛立ちの表明としての「みんなそうだよ」を言わせてしまうことだ。今日はそれを受け止めきれない。

その、今日は受け止めきれない、という日が私には少し多すぎる。と随分久しぶりに感じた。

ーー生きる。ただそれだけのことにアスリート並みの体調管理が要る。喚き散らして倒れて人を羨むともっと酷いことになると経験的に知っている。スピリチュアルな意味じゃなく、実際的に。倒れている間の費用、回復までの期間、失われる信頼関係の重さは、ある程度適切な重みとして知っている。

「みんなそうだよ」って今日だけは言わないで。これを思う日がたまにだったらいいのだよ。ちと多すぎるのじゃ。

キッチンの掃除を終え、浴室に取り掛かる。「なんやかんやしんどいことを考えた結果、私の部屋はピカピカになっていた。水回りは輝きに満ちていた。いつのまにか、女の子が来てもキャッキャウフフできる部屋になっていた、わーい。」みたいなオチも出来なくはないが、今日は自分の気持ちを素直に書こう。

浴槽を終えたらトイレに移る(しんどいけどぎりぎり動ける日は水回りが多くなる)。明日はおそらくちょっと寝込むだろう。一番大変な時期を気力のみで乗り越えるという暴挙を何年か実行して以降、私の身体はこのくらいのことでダウンしてしまうようになったのだ。

ーーすべてを終え、一過性の心地よさが負の感情に分け入る。が、予想以上に一時的なことは、私はもう知っている。でもひとまず、できることを粛々とできた。

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まだ病気にえらく絡め取られていたずっと昔。同じように掃除をしていたらスマホが鳴った。

世界から離れた独特の思考を持つ女の子からの電話だった。彼女は「みんなそうだよ」と言う発想がそもそもなく、ちょっとファンタジーの世界でふわふわ生きている人だったので電話をとった。

前置きも脈略もなく、その子にいきなり「今からはらっぱの多い緩やかな山に行って、マントを羽織って山の頂上から自転車で一気におりる遊びをしませんか?」と言われた。

私は「行かない」と答えた。

行けばよかったのだ。山を下る遊びが楽しくても翌日は変わらずダウンしてただろうが、思いのほか清々しいダウンになったかもしれない。ギリギリなときに思いがけない角度から救われていたのかもしれない。今日ふとそう思った。

なんとか自分を保つための行動の連続で、これからもきっと生を繋いでいくのだろう。ときには傍から見ると逆行するように思われる手段も、自分を生きながらえさせる行為だったりする。

でも私は多分もうそれはせずに、粛々とできることを営んでいくのだろう。

「みんなそうだよ」と何処かから聞こえた気がした。


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