2 『正欲』の脱構築
(2) 大きなゴールというマジョリティの暴力性 ―フーコーの「狂気」より―
目に入ってくる情報は、すべてそのゴールにたどり着くための足場だと、主人公の佐々木佳道は言う。そしてその情報は、マジョリティのためのものだ。佳道は、異常性癖者であり、性的マイノリティである。多様性として定義されたものにも含まれない、世界の外側を生きている。自分の存在が肯定されていない佳道にとって、生きることは、必ずしも前提となっていない。
フーコーは、このような個人にも生きるように促す統治を「生政治」と呼んだ。マジョリティが権力を生み、生政治を促している。
人々の人生をどう意味づけるかにかかわらず、一方的にただ生き物とだけ扱って、死なないようにする権力は行使される。ただし、その権力の担い手は、権力者たる、確固たるものが存在するわけではない。権力には、かならずその権力を押し上げるものが存在する。マジョリティである。
権力は、その統治のために、狂気と正気を分けた。マジョリティによる世界のクリーン化である。そのために、狂気は狂気として扱われ、治療の対象となった(それ以前の世界では、狂気と正気は明確に区別されず、もっとごちゃまぜになっていた)。多様性という言葉は、差異を強調した言葉だ。私たちの間に線を引き、分類している。みんなちがっていいというその押しつけがましい考えこそ、マジョリティの視点である(そもそも違いは許容されなければならないのか)。
結局、多様性のある世界もまた、世界の外側を作ってしまった。佳道や夏月など、狂気として残された人々はそのままでは生きることが難しい。ならばむしろ、線を引いて、世界の外側で生きたいと願う。しかし、マジョリティは放っておいてくれない。狂気を正気に治療するように、マジョリティはマイノリティに無自覚な暴力性を発揮する。問答無用に、生きることを強いるのだ。
啓喜は、検察という組織に所属し、社会正義の実現の一翼を担う。そこでは、法の下に、犯罪者を裁かなければならない。
しかし、通常ルートとは一体何だろう。多くの場合、ルートから外れることは不可抗力だ。一方、ルートから外れることが犯罪との距離を縮めるのであれば、権力は、ルートから外れる生き方を阻止しなければならない。
啓喜にとって、このような異常性癖者は、権力にとって処罰か矯正の対象でしかない。
一方で、啓喜の同僚である越川は、この事件についてこのように語る。
この手の発言は、一見狂気に寄り添ったものだ。だが、事は簡単ではない。啓喜の後輩の越川の発言もまた、異常性癖者=マイノリティ=狂気と、マジョリティ=正気に、明確に線を引くものだ。やはり正気が基準であることに変わりはない。啓喜は言う。
狂気という対象だからこそ寄り添う姿勢の越川、狂気は裁くべきだという啓喜、どちらも結局のところ、正気―狂気という二項対立から脱することが出来ていない。しかし、このような視点から完全に離れてしまうことは、もはや私たちの社会では難しい。罪は罰するものだ。どこかで切断しなければならない。
しかし、もし、そのような切断ではないあり方や居方ができる場所があるとしたら、それは家族(的)な場所と言えるかもしれない。夏月は言う。
私たちの現実とあなたの言う現実とは違うもののようだ。そしてそのような多様な現実を一つの現実=社会=世界として理解しようとすること自体に無理がある。それぞれが生きる現実は確かに存在するのだ。
【①へもどる】
【②へもどる】
【③へもどる】
【⑤へすすむ】