「自分で考えなさい」から考える主体性【主体性論考①】
友人の息子さんが、習い事の振り替えの予定を決める際、「いつにしたらいいかな」と、知人に聞いたのだそうだ。
友人が、「それくらい自分で考えなさい」と息子さんに言ったら、しばらく拗ねて黙ってしまったそうだ。
見かねた知人は、なぜ「自分で考えなさい」と言ったか、主体性(自分で決めて行動すること)の大事さを息子さんに説いたらしい。
「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という思いが、知人にはあったそうだ。
教師の「自分で考えなさい」
知人の話に私は既視感を覚えた。私たちが子ども(あるいは後輩や部下)に使う、この言葉。実に多くの場面で使われる。
わたしも教諭として子どもに指導する場面で度々使うことがある。ところがこの言葉、使っても、うまくいかない場面が結構ある。
質問されてもすぐに答えを伝えず、「自分で考えて」「もう少し考えてみて」と、長く待つ姿勢が、子どもによっては、苦痛な場合がある。
課題が全く進まず、結局、最後にはこちらが慌てて「なぜ、いままで何もしなかったの」と尋ねる。すると、彼らは何も言わずに黙って目に涙を浮かべる。
『考えろと言われたからずっと考えてたのに。時間がきたら「どうして何もしなかったのか」なんて理不尽だ。さっきは「自分で考えなさい」って言ったじゃないか。』
誰かに自分の行動の指針を「聞く」という主体的な選択をしているにもかかわらず、「自分で(主体的に)考えろ」と言われてしまえば、行為も思考も否定されていることになる。
これでは、子どもはどうしようもなくなってしまう。このようなことが重なることがあれば、次第に彼らの思考や感情は行き場を失って行くだろう。
考えて行動するという主体的な選択をするのが億劫になり、いわゆる「うつ」状態に陥るかもしれない。「自分で考えなさい」は、身体も頭も麻痺させる呪いになってしまう危険性を孕んでいるように思う。
考えることの押し付け
「自分で考えなさい」は、主体的に考えるということそのものを押し付けているという意味において、相手を受動的にさせている。
なぜなら、主体的に「考えない」選択もありうるからだ。
「自分で考えなさい」という言葉が私に気付かせてくれたのは”非主体的な主体性”の存在であった。
非主体的な主体性
もう一度整理してみよう。「非主体的な主体性」とは、自ら考えることを他人にさせられている状態を示している。別の例を挙げるとこういうパターンも想定される
〇本当はどうでもいいけど、先生が言うから自分で志望校を決める
〇上司の命令であまりやりたくないプロジェクトの計画を自分で立てる。
〇教師の仕事としてあまりやりたくない研究授業の指導案を自分で考える。
これらは私が考えるかぎり非主体的な主体性が求められる例である。
何かしらの外的圧力によって主体的な思考を求められる場面は、私たちの周りにはいくらでも存在すると思う。
しかし、これは主体性とは少し違うように感じる。主体性とは、もっと自由で広い範囲の選択をする性質のような気がするからだ。
これらの不自由さは一体どこにあるのだろう。
非主体的な主体性の不自由さ
それは、主体性を発揮する一人称が自分で何とかすることを求められている点にあると私は思う。
私たちの行為の選択の中で、「自分で考える」ことは、一つのオプションに過ぎない。
「考えない」選択もあるし、とりあえず聞いたり、話したり、歩いたり、寝たりすることも可能だ。
「考える」という選択肢を強いられることはすべてを自分の内面に委ねられている感じがして、これはなんだかとても窮屈な感じがする。
「考えない」という選択肢
考える間もなく、話したり、聞いたり、歩いたり、寝たりしてもよいのではないか。
しかし、これをやると困ることが起きる場合がある。たとえば、
・話したい、聞きたいと思い、人の話に割りこむ
・歩きたくなって演奏中のステージの上を歩く
・寝たくなって路上で寝る
流石に、「一度自分で考えなさい」と言いたくなる。やっぱり「自分で考える」ことは大事なのだろうか。
考えることの意味
話は逆戻りしてしまった。考えるということが一体何を意味しているのかもう少し考える(メタの視点で)必要があるようだ。
主体性を考える際に、主体とはいったい何か、そして、どうやら考えるという行為は「主体」に端を発しているからこそ大事らしいからだ。
すると、「主体」はどこにあるのかという問いに切り替わる。
これは本当に難しい。たが、この問いに答えなければ、主体性などと言うことは考えられない。
これからシリーズにして、いくつか引用を用いながら、主体性について考察していく。
よろしければこの稿も含めてご意見いただけるととても嬉しいです。
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