話を聞いてくれる誰かが、いるということ。
どうして人ってドラマをみるんだろう。
じぶんのことじゃないのに、誰かの
暮らしや気持ちをなぞるように見てる。
わたしも好きなドラマを観たら
そのセリフを静かに日記帳に
したためる。
もしくは、web上で書かせて頂いている
エッセイにそのことを記したくなる。
自分の記憶じゃないのに、ドラマのなかの
登場人物のはなしなのに、なぜか記して
おきたくなる。
今はこんなふうにnoteに覚書のように
記事の中に登場させたりしている。
こんなセリフに心打たれたりする。
主人公のとわ子が親友のかもめの突然の
死のことで罪悪感や喪失感で
いっぱいになっていた彼女の表情が
この言葉を聞いた時。
なにか戸惑いながらも
表情がやわらいだシーンがすきだった。
脚本家の坂元裕二さんがこうお話されていた。
そして、ひとりの人間の個人的な話が、結果的に
だれかにもあてはまるそんな普遍性をもつことで
多くの人に受け入れられる、それがカルチャーの
本質じゃないかってお話されていた。
たしかに、これはわたしの話だとおもえる
ことが、私たちを夢中にさせるのだろう。
そして今年、2022年わたしが、好きになった
ドラマはこちら。
このドラマが始まってからの月曜日には
彼ら登場人物たちの台詞がわたしの手帳
を飾ってくれている。
久能整君は、友達も彼女もいないカレー
好きの大学生。
みんながあたりまえだと思ってスルー
してきたことが、彼はスルーしきれなくて
ロジカルに言葉を組み立てて喋りつづけ
なければ落ち着かないというそんな性格の
持ち主。
「ぼくは常々おもってきたんですが」という
フレーズとともに、知識に裏付けられた
鮮やかな視点がちりばめられて
自論が展開されてゆく。
わたしは頭がいい整君とは真逆だけれど。
なぜか、じぶんのことのようだとひきつけ
られる台詞があった。
傷ついた事情を抱えていた整くんが家に帰り
たくなくて、図書館の庭でぼんやりしていたら
やさしいひとに声をかけてもらう。
それが大切なひとになる喜和さんとの
はじめての出会い。
地面をじっと観察している整くんに
「いろんなことをいっぱい考えて、誰かに話そう」
って言う。
そして、話す人がいなかったら、わたしでいいから
話してねっていう。
この台詞を聞いていた時に、なぜかわたしは
喜和さんの言葉が沁みていた。
背骨からその言葉が伝わって、涙腺を刺激
するような感覚だった。
土の上を這っているアリをみていた整くんに
アリって漢字で書ける? って聞く。
整くん、なんとスラスラと土の上に「蟻」と
書く。
じゃあ、なんで虫偏に「義」と書くのか
わかる? って。
整くんはじっくりと考えて、何日か経った時
喜和さんに会った時にこういう。
「アリの行動が団体で、義理とか忠義とかを
連想するから」
と。
そんな理路整然とした整くんの考え方をほめた
喜和さんは、今度は近くにある石について
考えてみようと言って、考えることが楽しいことだと
教えてくれる。
この台詞を聞きながら、わたしは想っている
ことを話せる人がそばにいるって、それが
必ずしも家族じゃなくても、よくて。
ただそういう人が、じんせいの何処かに
いてくれたってことを、じぶんの中に
あたためていることって、とても大切な
ことのような気がした。
そしてその想いがひとつあることで
自分自身を閉ざさなくなってゆく様な
作用ってあるんじゃないかなって
そんな気持ちになっていた。
整くんが友達がいないにも関わらず
はじめて出会った人にも自分の考えを
すみずみまで声にして話すのも、
それは喜和さんと出会った幼い頃の
あの約束をずっと守っているせいかも
しれないとも思ったりした。
そんなドラマをみてから、少し経った頃。
部屋の整理をしていたら、幼稚園の時の
連絡帳がでてきた。
そして、整くんにとってのかけがえのない
喜和さんのような存在のひとがわたしにも
このころいたことを思いがけなく
みつけた。
このことをすっかり忘れていたわたしは
あの頃しのはら先生が、わたしの背の高さ
にしゃがんで話をきいてくれている
姿が浮かんだ。
なかなか喋ることができない子供だった
けれど。
わたしにとってはじめて出会った先生は
やさしい眼差しのひとだったことを
改めて知った。
だれかに思いを話せるということ、
そんんな誰かがひとりでもいるとしたなら
それはとても幸せな景色なのだと。
ドラマをみることで、わたしの小さかった
頃の思いや考えがすこしずつ整ってゆく。
そのことが、わたしをすこしずつまえに
向かわせてくれているんだなって。
そしてドラマについてすきな人と語ることで
じぶんの心のありかを発見できることも
知ったことがうれしい。
好きなものをシェアするというよろこびを
初めて知ったようなそんな気がしている。