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ハードボイルド書店員日記【178】

「オカダの本、ある?」

静かな平日の午前中。レジにふたりは要らない。抜けて品出しを続ける。隙間時間を見つけてやらねば終わらない。明日は明日の荷物が来るのだ。昼休みを削り、店長を困惑させるのは気が引ける。そこまでする義理もない。

新刊と売れた分の補充だけならどうにかなる。問題はそれ以外だ。本部が注文し、大人の事情でしばらく返せぬ謎の17号ダンボール8箱。仕入れ室に置き場所はなく、棚下のストックも限界水域だ。後ろのスペースへ溢れたら拾うために事務所から物差しを持ち出し、右腕をナメック星人みたいに伸ばすハメになる。

本部の入れた書籍は買い切りではない。過剰在庫ゆえ、棚へ並ばずに返されることも少なくない。そもそも棚卸前には「在庫を減らせ」「毎日○箱以上は返品せよ」という指令が来るのだ。おまえらが勝手に注文した本をそのまま返せば満足かと問いたい。

沸き上がる黒い心を押し殺し、旅行ガイドを棚へ差す。担当外だが他に出す人はいない。いつも週刊文春を買う老紳士に声を掛けられた。

「オカダ、ですか」
「君、好きでしょ」
ああとスポーツ書の棚へ移動した。幻冬舎から出ているオカダ・カズチカ「『リング』に立つための基本作法」を手にして戻る。弱冠24歳で業界最高峰のIWGPヘビー級王座を獲得し、新日本プロレスを引っ張ってきたスター選手だ。今年の1月に退団し、アメリカにあるAEWという団体へ移籍した。

「いつの本?」
「2021年12月です」
「読んだの?」
「ええ」
「面白かった?」
「やはり若くしてトップに立つ人は新人の頃から心構えが違うなと」
「たとえば?」

記憶を頼りに47ページを開いた。こんなことが書かれている。

「ちゃんこをうまくつくれても、強いレスラーになれるわけではない。しかし、プロレスは格闘技であるだけでなく、エンタテインメント性も大切だ」
「ちゃんこがおいしければ、自宅暮らしで通ってきている先輩たちも道場で食事をしていく。OBの方も食事をされるので、一緒に食卓を囲める。エンタテインメントだ」
「たとえやらされることであっても、創意工夫次第で楽しくなってくる」

「感心するね。成功するわけだ」
雑な手つきでページを捲り、頻りに頷く。
「AEWとの契約、3年20億円だっけ? 夢があるよなあ」
「まあ」
「君もどこかの大富豪が『理想の本屋を作る!』とか言い出して10倍の給料で誘ってきたら行くでしょ?」
「即答はできません」
「何だよ。下っ端じゃ嫌だってこと?」
「違います」

いま口を開くと語彙のチョイスを誤るか、余計なひと言が飛び出しそうだ。大きく息を吸って吐き、開店前から続くざわつきを落ち着かせた。

「ゴミ捨てや朝の荷開け、品出し、備品の補充、レジ打ち等を担う従業員の給料が10倍なら喜んで行きます。それらも選書も両方やります。しかしフェアや棚作りを任された数名だけが10倍で他の末端業務をする者が据え置きなら、前者の一員として誘われても断ります」

そしてこう続けた。「オカダじゃなくてBUSHIや高橋裕二郎の年収が億単位になった時に、金銭的な意味でプロレスには夢があると感じます」

いずれも新日本に所属するレスラーだ。勝つよりも負ける方がずっと多い。悪く言えば対戦相手を輝かせるための引き立て役。だがそういう選手がいなければ、どんなスターでもファンを興奮させ、次の大会のチケットを買わせることは難しい。

メディアが注目するカリスマ書店員や、インタビューで業界の改革を訴える大型店の役員も同じだ。連中が活躍できるのは我々みたいな末端が最前線で雑務を担い、数々の罠が施されたレジ業務を正確にこなし、気難しいお客さんから理不尽なことを言われても耐えているからこそ。互いの生活を支えるために互いが必要。ならば給料の額や世間の評価がどうあれ、立場はイーブンだろう。

ベルが鳴った。急いでカウンターへ戻る。レジ打ち、カバー掛け、ラッピング、問い合わせ、電話対応。ようやくひと段落。品出しへ戻る。担当が休みの実用書が手つかずでブックトラックへ山積み。やれやれ。オカダが出演していた某アーティストのPVが頭を過ぎる。最後はこんな歌詞だったはずだ。

”目立たぬ場所で踏ん張っている Working men blues"

オカダさん、心から成功を祈ってるよ。でもな、その曲により相応しいのはBUSHIや裕二郎や俺たちみたいな人間だぜ。創意工夫にも限度があるんだ。

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