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ハードボイルド書店員日記【125】

「この本って取り寄せできる?」

温暖な木曜。ただし祝日。開店直後はカバー全種類を折れたが、そんなオアシスは25分も続かない。まだガラガラな声を張り上げ、レジ袋やカバーが要るかを問う。

有人レジの前に長蛇の列。セルフレジは置物と化している。施設のポイントを付けられず、支払い方法も限られているのだ。付随する手間を考えたらこちらのメリットも少ない。尤も会社には人件費を削る意図があるゆえ、引っ込める可能性は堀江貴文が出所直後に出した本のタイトルと同程度だろう。

昼下がりにオーソドックスな問い合わせが来た。

背の高い男性。歳は私より少し上か。スマートフォンの画面を見て思わず「ああ」とつぶやいた。プロレスラー・蝶野正洋が10年以上前に出した「会社に負けない喧嘩の仕方」という新書だ。念のためパソコンで検索する。案の定。

「申し訳ございません、出版社にも他店にも在庫のない本です」「それは残念」咳払い。私と同じく喉の調子がよろしくない。サングラスこそ掛けていないが全身黒のコーディネート。おそらく同志だ。2日前に東京ドームでおこなわれた武藤敬司の引退試合を観戦し、サプライズ的に彼と試合した蝶野が気になったのだろう。

「じゃあこれは?」次に示されたのは蝶野とフリーアナウンサー・辻よしなりの共著「GRAY ZONE―不透明な時代のおまえたちへ」だ。出版は98年。「古いから難しい?」「ですね」「そっかあ」ガッデムと叫ぶ気配。一瞬期待した。

「面白い本だから再販してほしいですね」「え、店員さん読んだの?」「まあ」目が輝いている。「内容覚えてる?」昔のことですからと前置きを入れ、記憶を掘り起こす。「互いの人生をモノローグしつつ、合い間に対談が挟まれる構成でした」「へえ」「辻さんの新人時代のエピソードが印象に残ってます」「どんな話?」「上司に連れられて入った居酒屋で焼き鳥を100本近く食べさせられたそうです。さらに美味しさを5分で話せと」「いまならパワハラだね」「そういう無茶ぶりの積み重ねで何が起きても動じない度胸を鍛えられたと」「なるほど」

売り物の内容を話したら商売にならない。だがもう新刊書店では買えないし、この程度なら構わないだろう。

「蝶野はどんなことを?」「ヤングライオン時代に作り方を教わった料理は『豚ちり』だけと」「『豚ちり』?」「豚肉と野菜を鍋で煮て、醤油と大根おろしとレモンのたれで食べるそうです」「シンプルだね」「トイレに入った○○選手が座ったままドアを開けて『ぼくのお肉、残しておいてね!』と声を掛けてきたとか」「ははは! 昭和のレスラーはアクが強いなあ」同意見だ。

「蝶野さんの本で、いま当店にあるのはこちらです」竹書房から2020年に出た「自叙伝 蝶野正洋 -I am CHONO-」を棚から持ってきた。「面白そうだね」「似たような本はいくつかあります。でもいまの視点から振り返っているので強がりや誇張が少なく、最も真相に忠実かと」頬に視線を感じる。「あなた蝶野ファン?」「ええ」「ドーム行った?」「2階席で見届けました」「一緒だ。じゃあさ、蝶野の本で何がいちばんオススメ?」さほど迷わなかった。いちばんオススメの試合を選ぶよりは。

「これですね」ルー出版から98年に刊行された「My Bible―黒の聖典」のデータを見せる。某密林では買えるが新刊書店で取り寄せるのは難しそうだ。「どんな内容?」「テーマごとに一行で言い切った哲学を集めています。アフォリズムというか」「芥川龍之介の『侏儒の言葉』みたいな?」「よくご存知で」仕事中じゃなければ握手を求めていた。「何か覚えてるフレーズがあったら」頭の中でページを捲る。たしかあれは69ページ。

「考えるな、行動しろ」「行動するために考えろ」

そして94ページ。すべての同業者に贈りたい。

「自己犠牲を過大評価するな」「組織は個人に犠牲を強いる」

さすが黒のカリスマ、いいこと言うねえ。盛んに感心している。混んできたのでそろそろ潮時だ。203ページと212ページも忘れ難い。

「勝利は人に翼を与える」「敗北は人に重みを与える」「弱さは真実にもっとも近い」「弱さを認めろ」

「自叙伝」を購入してくれた。「My Bible」は注文できるかどうかを後日確認し、結果を電話することになった。ほぼ趣味の延長だったボーナスタイムが終わりを告げる。あとは退勤までひたすらレジ。大晦日の名物と化した入場曲「CRASH」を脳内で鳴らし、ビンタを食らう覚悟で次のお客さんを迎え入れる。I am ハードボイルド書店員。ガッデム。

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