ハードボイルド書店員日記【175】
出勤の日に寒気が戻る
「いらっしゃいませ」
「ちょっと面倒なこと訊いていいかしら?」
「どうぞ」
「太宰治を大好きな女の子に小説以外でオススメの本、何かある?」
「ございます」
「え、本当に? 小説じゃないのよ。漫画とかも駄目よ」
「とか」がどこまで含むのか気になる
「こちらなどいかがでしょうか」
「『まさかジープで来るとは』って何? エッセイ?」
「せきしろさんと又吉直樹さんによる自由律俳句集です」
「又吉ってサイドスローの?」
その人の名前が先に来るとは
「いえ、お笑い芸人の。2015年に『火花』で芥川賞を」
「ふうん」
「彼は太宰治の熱烈なファンです。だからなのか、この本にも”ダザイ現象”を促す作品がちらほらと」
「”ダザイ現象”?」
「『これは私だ。私のことを書いてくれてる』みたいな」
「そんなわけないじゃない」
わかってることを口に出さずにいられないのか
「けっこう面白いわね」
「そう言っていただけると」
「これなんて、まさにあたしのことよ」
「どれです?」
「54ページ。『素麺をあるだけ茹でてしまった』」
「わかる気がします」
「夏の終わりについやっちゃうのよね。いま時分にゅうめんにしても美味しいのに。鶏のもも肉を入れて」
「私は先日お問い合わせを頂戴した本を見つけた際、こちらを体験しました」
「どれ?」
「164ページです。『題名しか知らない童話だ』」
気遣いが底上げした笑いだと気づかぬふり
「何でも読んでますよって顔してるくせに」
「いえいえ。お客様がレジへ持ってきてくださる書籍のうち、私が読了したものは1割あるかどうかです」
遠回しな自慢になってないか脳内リピート
「でもこれ俳句なのに季語が入ってないわね」
「定形や季題から自由、ということらしいです」
「あたしでも作れそう」
「ぜひ」
「参考書に1冊いただいていこうかしら」
「ありがとうございます。でもたしか太宰治が好きな女の子に」
「いいのいいの他の本にするから。ねえ、あなたも何か作ってみてよ」
「ここでですか?」
「そう」
「じゃあ適当に」
文藝春秋と週刊文春がございます
「意味わかんない」
「キャリアを積んだ書店員なら誰もが頷いてくれます」
「あたし書店員じゃないもん」
「ですね。失礼しました」
「まあいいわ。あ、そうそう。大事なこと忘れてた」
「何か?」
「新潮文庫の『罪と罰』って置いてないの?」
「申し訳ございません。その本に関しては345ページです」
そこにはこう書かれている。
下巻しかない