ハードボイルド書店員日記<52>
水曜の午後3時。レジを抜けて仕入れ室に入る。入社したばかりの雑誌担当が呆然と立ち尽くしていた。20歳のパブロ・ピカソみたいな顔。多くの荷物が梱包を解かれず、灰色の台車に積まれている。
「どうしたの?」「あ、すいません。予約の入っている雑誌が何度探しても見当たらないんです」「入荷してないってこと?」「ええ。調べたら梱包の数もひとつ足りなくて」都内の大きな書店では雑誌は発売前日の午後に入る。もちろん翌日にならないと発売はできない。
「荷受けの時に数は確認した?」「いえ」トラックが到着する直前にドライバーは店に電話を入れる。そこで雑誌の梱包と新刊書籍の入った段ボールの数を伝えてもらうことになっている。「雑誌69、書籍7」だったらしい。私が雑誌担当のころは、台車に荷物を移しながら確かめていた。
「やった方がいい。こういうことが起きるから」「すいません」「明日発売っていうのは間違いない?」「あ、はい」入荷伝票を見せられた。「赤ペンでチェックの入っているものが未入荷で、○で囲ってあるのが予約の入っているやつです」有名な映画雑誌だ。「ここに記載されているなら、たしかに今日の荷物だな」ピカソがかすかに頷く。
「ドライバーさんの連絡先は?」「わかりません」「前に聞いておいたはずだけど」「そこの壁に貼ってあるやつですよね。先週から新しい人に代わったんです」「色黒の若い人じゃなくて?」「はい、かなり年配の」「じゃあ取次の倉庫に電話を」「店長がやってくれたんですが、まだ返事が来なくて」「店長は休憩?」「ええ」だからここで立ち尽くしていたのか。「とりあえず荷物を開けよう。今できることはそれしかない」「は、はい」
数十分後。作業を続けていると連絡が来た。ドライバーは間違いなく正しい数の荷物を載せて出発したらしい。念のため「伝票だけ先に来て明日の朝に入荷ってことはないですか?」と尋ねた。雑誌の場合そういうことはないと返された。以前そういうケースがあったのだが、あれは一段バーコードの雑誌ではなく書籍扱いのブランドムックだった。「あと考えられるとしたら、ドライバーが他の書店さんに間違えて荷物を下ろしてしまったとか」「なるほど」向こうで訊いてくれるらしい。礼を述べて通話を終えた。
「あの雑誌、ぼくも買いたいんです。ずっと楽しみにしてて」ピカソが女性誌に輪ゴムを十字に掛ける。「映画好き?」「揚げたてのメンチカツと同じくらい」ランクの程度が掴めない。「何がオススメ?」いくつか名前を挙げてくれた。ひとつもわからない。私は昔の作品しか見ないのだ。その旨を伝えると「初期ゴダールも好きですよ」と目を輝かせた。ショキゴダール? 6秒ほど真剣に悩んだ。
「俺はアホだ」「どうしたんですか?」「結局はそうさ、アホじゃなきゃ」「あ、それわかります!『勝手にしやがれ』の冒頭ですよね!」身を乗り出してくる。「詳しそうだから映画とかアート書の棚、やってみる?」「え、いいんですか?」「俺が担当だからその補佐ってことで店長に話してみる。最初は補充分の品出しから。慣れたら追加発注や新刊の注文も」「やらせてください! お願いします」「自分の店じゃないから100%好き勝手にはできないよ」「もちろんです! 売り上げを伸ばしますよ!」
4時過ぎ。眼鏡をかけた白髪のドライバーが「ごめんね! いやあ参った参った!」と頭を掻きつつ荷物を届けてくれた。ウチの前に寄った別の書店で誤って下ろしていたのだ。開ける前に向こうの人が気づいて、彼に連絡を入れたらしい。ピカソが何か言いたそうに相手を睨んでいる。私が「ありがとうございます。お疲れ様です」と普通に受け取ったから耐えてくれた。
仕入れ室の扉が閉まる。静寂。「…俺は本が好きだ」え、とピカソがこちらの横顔を窺う。「書店が好きだし、書店に買いに来る人も好きだ。書店と関わって働く人も」「わかります」「本が嫌いなら、人が嫌いなら、書店が嫌いなら…」
3秒後、野郎の声が麗らかにハモる。「勝手にしやがれ!」
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