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「失われた時を求めて」を巡る冒険⑥

↓を読了しました。

この巻で関心を抱いたのは、1894年に起きた「ドレフュス事件」です。

学生の頃、世界史が苦手でした。あちこちへ視点が飛び、馴染みの薄い人物が大半だから。

一方で字面のインパクトが頭に焼き付いているエピソードもなくはない。「ドレフュス事件」もそのひとつです(他は「カノッサの屈辱」や「テルミドールの反動」など)。

ドレフュスは1906年に無罪判決を受けます。つまり冤罪。しかし作中で描かれる世論は有罪を信じる声が多数だと感じました。

反ドレフュス派が多かったのは上級貴族や軍部、カトリックなど。しかし語り手と親しいサン=ルーは侯爵で騎兵部隊に属する軍人ですが、ドレフュスを支持しています。語り手の「私」も反ドレフュス主義の父親や祖父とは異なる見解を取り、一週間口を聞いてもらえませんでした。

舞台は19世紀後半のフランス。にもかかわらず共感を覚えました。なぜなら私も家族のなかで生き方や考え方が異なるから(太宰治及び彼の文学を愛する理由のひとつです)。

ウチの家系はゴリゴリの保守。

2015年の安保法制の際、父は「選挙で勝った党に黙って従うのが民主主義」と豪語し、野党やメディア、デモ隊の政府批判を悉く見下していました。諸々のデータから安全性を懸念する声を陰謀論と一緒くたにして「非科学的な反ワク」と決めつける連中のように。

まず時の政府の見解や多数派の声が常に正しいとは限らぬことは、先の大戦を含む歴史的事実が証明しています。

もうひとつ。決定に時間がかかったとしても少数の声に耳を傾け、配慮と議論を怠らず、最適な道を探る姿勢こそ民主主義の長所のはず。緊急事態に直面して冷静さを欠いた人々を思い通りに誘導する「ショック・ドクトリン」という手法もいまや知れ渡っています。

声の大きな人、というか声の大きな人に盲従する層はそういう点に目を瞑りがち。そして後になって自分たちが間違っていたことを知り、今度は国に責任を押し付ける。

続巻で描かれるかはわかりませんが、無罪判決が出た後の有罪派の様子を知りたいと思いました(特に上級貴族)。

なお、全14巻を読むに当たり、ふたつのルールを設けています。

1、1冊読み終えてから次の巻を買う。
2、すべて異なる書店で購入し、各々のブックカバーをかけてもらう。

1巻はリブロ、2巻は神保町ブックセンター、3巻はタロー書房、4巻は大地屋書店、5巻は教文館、そして6巻は↓で購入しました。

秋葉原にある「書泉ブックタワー」です。

スポーツ関連の書籍をよくこちらで買っています。プロレスラーのサイン本とか。いまも扱っているかはわかりませんが、かつてはプロレスのチケットをここか神保町の「書泉グランデ」で購入することが多かったです。

私と同年代でプロレス&格闘技好きの方は、機会がありましたら「グランデ」の地下1階へ行ってみてください。住みたくなります。

「失われた時を求めて」皆さまもぜひ。

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