私小説「私が『ハードボイルド書店員』になるまで」前編
20××年3月中旬。休日の午前中。部屋で携帯電話が鳴った。
「○○くん? 店長のYです」「おつかれさまです」「職探しは進んでる?」「ええ、今度×××書店と面接を」「ちょっと状況が変わってさ。まだウチで働く気、ある?」「えっ」「雑誌担当がひとり、来月で辞めることになってね。急な話なんだけど、よかったらどうかと思って」「……」
Hさんの顔が頭に浮かんだ。数週間前にいつもの飲み屋で交わした会話も。「俺、また調査役から『雑誌やらない?』って誘われたんだよね」「またですか。もう引き受けたらいいじゃないですか」「いや、そうすると契約社員になるからシフトが増えるだろ」「生活が安定しますよ」「そんな簡単な話じゃない。俺には時間が必要なんだ。それに……君ならわかるだろ?」
この話、もしぼくが引き受けたら彼はどうなるのだろう。
「もしもし○○くん?」「はい」「どうする?」「はい、あの、、、」
初めて書店で働いた日のことはいまでも覚えている。
7階の事務所で契約を済ませた後、簡単な研修をおこなった。接客用語を教わり、従業員役とお客さん役に分かれてのロープレ、そして本にカバーをかける練習をした。同期の女の子はそつなくこなしたが、ぼくはどれも上手くできなかった。新卒として入った会社で営業マンこそ経験していたが、接客業は初めてだった。
17時から研修が始まり、19時を過ぎた頃「じゃあ下に行こうか?」と社員の女性に声を掛けられた。「下、ですか」「売り場」震える足で階段を下り、5階の店へ向かう。お客さんとして入ったことなら何度もある。だが従業員のひとりとしてフロアを歩くと気分も景色もまるで異なった。場違いというか申し訳ない気がした。
同日入社の女の子はコミックや児童書、学参が中心のBカウンター、ぼくは雑誌や文芸書、ビジネス書などが並ぶAカウンターに配属された。後で知ったのだがBカウンターのモットーは「仕事は楽しく」だった。こちらは違った。黒縁眼鏡をかけたポニーテールの女性にいきなり「レジ入って」と言われた。そのまま彼女が後ろに立つ。「ほらお客さん並んでるよ」「え」「あなたがやるんだよ」「あ、はい。い、いらっしゃいませ」あとは20時の閉店までノンストップ。一冊だけ単行本のカバーを上下逆さまにかけてしまったことを鮮明に覚えている。
とにかく知らないことが多過ぎた。
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