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なんのために生きるのか? ある読者の誕生

「テクスト」の読書は、一回性の行為である。

これまで観念的にしか読んでこなかったロラン・バルトのことばを28歳の秋、ようやく読めるようになった。それだけではない。"本当の意味で"読めるようになったテクストや作品がいくつもある。ひとつの経験が過去の作品の意味を変える瞬間、そんな僥倖が幾度もわたしを訪れた。たった数か月の間、野分のごとくわたしの上を過ぎ去っていった人たちが、わたしの経験や価値観を押し広げ、世界が生まれ変わるような変化をもらたしてくれたから。それら奇跡のような体験は、記しておかないといけない。

2017年、テレビ局の記者として働いていたわたしは、取材でとある企画展に足を運んだ。そのときのことは今でも鮮明に思い出すことができる。日本を代表する現代アートの美術館で、それまでも何度か訪れたことのある場所だった。

取材には、ベテランのおじいちゃんカメラマンに同行してもらった。おじいちゃんは小柄で白髪まじりの可愛い風情のひとだけれど、長くドキュメンタリーを撮っていた経験があり、ちょっと豪胆で、わたしの知っている中でも最高のカメラマンのひとりだった。

その展覧会は「命」を題材にしていた。記憶に残る作品はいくつもあったけれど、巨大なインスタレーションが圧倒的で、どんな風に撮るかがニュースの肝になると感じた。一番広い展示室で、わたしたちは巨大な作品を前に「どこがオモテか」という議論を繰り広げ、結局どこが正面なのか判断できないまま、その"生命"を撮った。残念ながら、その後すぐにわたしたちが撮影したのは背中だったと知ることになる。

教えてくれたのは、企画展のキュレーターさんだった。彼は展示に詳しそうな雰囲気を纏って壁際に立っていたから、わたしは「ああ、この人に聞こう」と自然に声をかけることができた。わたしはあまり優秀な聞き手ではなかったから、面倒くさい質問をたくさん投げかけてしまったかもしれない。でもそんな門外漢の新人記者の質問に、彼はひとつずつ丁寧に丁寧に答えてくれた。そう、例の作品の正面がどっち側なのかも含めて。「もうぜんぶ撮ってしまったよ」と気乗りしないカメラマンを説得して、わたしたちは作品を正面から撮り直した。これがわたしの1分10秒、いわゆるストレイトニュースの記憶だ。

2021年の夏。人の行き交う東京で、わたしは偶然このキュレーターさんと再会を果たすことになる。4年ぶりに会ったそのひとは、相変わらず垢抜けていて、どこか飄々としていた。まるで風のようなひとだったから、凪いでいたわたしの心を波立たせ、去っていった。わたしは4年間の時を経て、記者時代にタイムスリップしたような感覚を味わった。

この4年間は決して幸せの連続ではなかった。苦しいこと、目を背けたくなるような瞬間もたくさんあった。受け入れ難い過去でもある。周囲を偽り続けながら、現実を生きている。それでも、かつて一瞬だけすれ違ったキュレーターさんに再会して、心が満たされたものとして当時の記憶が蘇った。記者として過ごした時間は、つらい記憶ばかりだと思っていたのに。経験によって、過去の出来事に新たな意味がもたらされる。人生でこういう経験がそう何度もあるとは思えない。

新しいものとしての過去の記憶への邂逅は、わたしにたくさんの示唆をもたらしてくれた。作品の「批評 critique」についての視座は、その最たるものだ。美術も音楽も文学も詩歌も、解釈によって世界は豊かに広がってゆく。わたしたちは何のために生きるのか。そのひとつの私なりの答えはこうだ。経験が過去の記憶の意味を変え、立ち現れる瞬間のため。わたしが1秒1秒を刻むごとに、作品の見え方もまた変化してゆく。あらゆるアート作品が、経験により意味を変え、豊かに解釈されるから、生きてゆけるのだとわたしは思う。

作品の「開かれ」という面ばかりがひとり歩きしているけど、バルトの出発点もまさにここにある。「作者の死」は「読者の誕生」によってあがなわれなければならない。そういう意味では、わたしはやっとひとりの読者として生まれ直すことができた。

わたしの心を掻き乱したすべて。それらは遠のいてゆき、やがて沈黙だけが残る。それでも他者の痕跡はエネルギーとなって、豊かな解釈を生み出し続けてゆく。いつだって過去に折り合いをつけることは難しい。けれども、わたしはひとりの読者として、ようやくスタート地点に立てたような気がしている。

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