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【レポート】仮想空間が超えなければいけない一番の障害は何か?

自己評価:答えが見つけ難いため現時点でレポートにふさわしくないテーマ

仮想空間が超えなければいけない一番の障害を考えるために、まず、哲学とは何なのかということについて紹介しておく。(出典:西研/哲学から見た国語教育~神奈川県高等学校教科研究会国語部会研究大会記念講演(2004年5月26日)より)

『哲学を始めた人は、タレスだということになっている。

遥か昔、紀元前七世紀から六世紀くらいの人で、ギリシャの対岸の小アジア(今のトルコ)にあったミレトスという都市の人である。

ミレトスは、非常に通商が盛んな所で、地中海沿岸のさまざまな民族が絶えず行き来しているような所だったようです。

そこのタレスが「万物は水である」と言って、そこから哲学が始まったということになっている。

おそらく多くの人が「万物は水である」という言葉を聞いたことがあると思う。

では、なぜこれが哲学なのか。

これは、タレスが自分の頭で考えてそう言ったのだと信じられてきたからである。

本当は分からない。

タレスは著作を残していないし、ひょっとしたら神秘主義的宗教家だったのかもしれない。

しかし、アリストテレスや後のギリシャの哲学者たちが、「哲学の始祖はタレスだ」という時には、この人が初めて自分の頭で考えたとみなしているのである。

哲学を始めたのは、ギリシャ人であるが、アフリカのほうにもイタリアのほうにも、地中海沿岸の全域にわたって植民都市を持っていた。

そして交易を非常に盛んに行っていた。

地中海におけるこういう交通・交易というものが何を生んだかと言いうと、「伝統的な自明な世界像へ疑いを持つ」ということだったろうと思う。

自給自足的な暮らしを想定してみる。

自分たちの一族や部族だけで暮らしている。

ほかとほとんど交渉が無い。

その中で農業などをやって、父祖伝来の暮らしがずっと続いていく。

そういう状況を想定してみると、そこではかなり世界像が固定的なものになるだろう。

「世界像」という言葉は、よく使われる言葉であるが、どんな気持ちで使っているかと言いうと、「世界と自分とのかかわり」についての像なのである。

ただ客観的に世界を知るということではなくて、世界はこういうもので、私はこういうもので、だからこうやってかかわっていったらいいのだ、という像なのである。

そこには価値観というものが含まれている。

例えばこういう世界像がある。

「父祖伝来、土地を受け継いで自分たちは生きて来た。自分たちの一族を繁栄させることがもっとも大切なことである。男に生まれた自分は、大きくなったら家長という役割を担い一族の繁栄に努めるのが当然だ」というような。

こうした世界像のなかには、家長なら家長なりのふさわしい生き方があって、それを果たすのが正しい生き方であるという価値観が含まれている。

そういう価値観を含んだ世界像というものを、どんな人間も持っている。

世界像が無いと人間は生きていけないのである。

もし、世界像が何かで壊れてしまうと、それはいわば地図の無い世界に投げ込まれてしまったようなものである。

迷子というのは大変恐い。

海外で地図をなくしたりして迷子になってしまったら、ひどく恐い。

つまり、我々は、この世界がどういうものであって、そのなかで自分は何者かであって、こういうふうにするものだ、という像(理解)をそれなりに持っているから生きていけるのである。

それが何かのことで壊れてしまうと、人は非常に不安になって生きていけないような存在であるわけである。

しかし、伝統的な自給自足的な共同体においては、世界像はだいたい安定した形で与えられている。

いままで親たちもこうやって生きてきたし、自分もそうやって生きていくのだということで、そこに疑いが少ない世界である。

その世界像は、宗教、神話、伝説といったものと一体化しながら、安定したものとしてある。

我々からみれば、厳しいしきたりなどを含むわけであるから、不自由といえば不自由なのであるが、彼らにとってはこれが当たり前で、不自由だと考えることすらないかもしれない。

ところが地中海をまたにかけて交易というものが始まる。

交易とは、異なった世界像を持つ人間が接触しあうということである。

つまり、そこには、カルチャーショックということが起こり得る。

自分にとって余りにも当たり前だったことがぜんぜん通じない連中があそこにもいる、ここにもいるではないかということになってくる。

そういうとき、自分が今まで自明のものとしてきた世界像は、たまたまそう信じていたものに過ぎないというふうに思う。

おそらくそういう状況が古代ギリシャで展開しつつあった。

新しい世界には、期待がある一方で、不安もあったのではないかと思う。

それは、今までとは全く異なる人間関係の中に入って行くからだ。

そこには、これまで知り得なかった、新しい利害と妬みが存在する。

この二つの感情は、同じ世界像を生きる社会の中でも、ましてや異なる社会の中での感情の強力な基礎となったのではないかと思う。

利害と妬みをコントロールすることはなかなか出来ない。

それは仕方がないことでもある。

そこで、私たちにとって必要なことは、自分や相手をいつでも理解出来るという安易な思いは捨てることであったのかもしれない。

また、私たちが相互にあますところなく理解し合えると考えているとしたら、それは幻想であると考えたのかもしれない。

友人であっても、どんなに親しい関係であっても、理解できないものは必ずある。

世界像が異なる世界の人々が理解できないものを認め合いながら、関係を構築するのが社会なのである。

そこでタレスという人は、本当は世界はどうなっているかということを自分の頭で考え始めようとしたのであろう。

そこで彼は、「世界のおおもとは何か」と問うた。

このおおもとは何かというのがギリシャ哲学の典型的な問い方なのであるが、このおおもと、つまり根源のことを、ギリシャ語ではアルケーという言葉で呼んでいる。

このアルケーという言葉がラテン語に入って、プリンキピウムという言葉になる。

プリンキピアという言葉は、英語では、プリンシプルということになる。

「原理」と訳される。

であるから、哲学とは「原理を尋ねる学」なのである。

物事の根源、原理を問い尋ねる学問、一言で言うと、哲学はそういうものである。

タレスが初めて、世界にさまざまなものがあるけれども、そのおおもとは何だろうと自分の頭で考えてみた。

いろいろ考えた末に、彼は水がおおもと、アルケーだと言ったのである。

愛ではなかった点が面白い。

なぜ水なのかというと、二つくらい説がある。

水というのは凍ったり、温度が上がってくると水蒸気になったりして姿かたちを変える。

実はおおもとは水であって、それが万物さまざまなものに姿を変えている、そう考えたのだろうという説がある。

また別の説としては、水が無ければ生命が存在しない。

あらゆる植物も動物も人間も、水によって養われているではないか。

だから水こそが万物の根源であるに違いないと考えたのだろう、というものである。

どちらが正しいのかは決め手がないのであるが。

これは哲学の始まりであるが、科学の始まりと言ってもいいもの。

であるから、実は、自然科学と哲学は同じものなのである。

自分の頭で考えて、かつ、ちゃんと自分の主張を理由を付けて述べる。

そういう仕方で議論を行って、その中で、より強く、深く、説得力のある考え方が生き延びる。

そういう営みを哲学と言うのである。

だから哲学というのは、実は、学問と同義語である。

広い意味での哲学というのは、ありとあらゆる学問的営みを包括する名称なのである。

そこから自然科学が分かれたり、政治学が分かれたり、経済学が分かれたりしていった。

だからタレスは、自然科学の祖と言ってもよいのであろう。

おもしろいのは、タレスが「水がアルケーだ」と言いうと、弟子が「はたして水と言える根拠はあるのか?」と言い始めるわけである。

水が本当に根源と言えるのか。

例えば風でもいいではないか。

空気みたいなのがあって姿をいろいろ変えているとか、人間も動物も植物も死ねばすべて土に返るから、土でもいいではないか。

決定的に水と言えるだけの証拠はどこにもないので、水とか土とか言えないだろう。

アルケーにふさわしいのは、そのような具体的なものではないはずだ。

そこで弟子のアナクシマンドロスは、アルケーは「無限定のもの(ト・アペイロン)」だと述べたのである。

何物にも限定されない、具体化されないような何かがあって、そういうものが姿を変えるというふうに考えなければだめだというのである。

アナクシマンドロスの説には一種の論理的思考が芽生えている。

水と言ってしまったら、土とか空気とか、ほかにもさまざまに同じレベルの候補が出てしまう。

そうすると同位レベルで争ってしまって決着がつかない。

当に、今の世界が混沌としているのは、此の点に尽きるのではないかと推測できる。

それではまずいので、具体的な物になる以前の何かを想定しようとしたのであるから、これはかなり高度な論理的な思考である。

そうすると、こんどは、アナクシマンドロスの弟子のアナクシメネスという人が「無限定のものでは何のことか分からない」と言い始めた。

彼は、いろいろ考えた上で「気息」がアルケーだ、と述べた。

アルケーは空気みたいなものではないだろうか。

空気は吸わないと人間はすぐに命が無くなってしまうという意味で、非常に重要なものだ。

かつ空気のようなものが濃厚になって固まってくると液体なり固体になる。

濃厚になったり希薄になったりすることで、固体になったり液体になったりする。

濃厚とか希薄という考え方を入れて、もういっぺん具体物としての空気というのを出してくる。

【参考記事】
イオニア学派 タレス・アナクシマンドロス・アナクシメネス ソクラテス以前の哲学者たち
https://www.kannso.com/entry/ionia-vorsokratiker

このように哲学というのは議論のゲームであるから、そこに「あらかじめ存在する絶対の真理」などというのはないのである。

お互いに議論しあって、どの考えがより深くて説得力があるかを競い合う。

そこで勝ち残ったものをさしあたって「真理」と呼ぶ、ということである。

ですから、もともとどこか客観的な真理があって、それを正確に言葉でもって写し取る、というふうに考える必要はない。

議論しながら説得力のある考えを競い合っていくゲームなのである。

だから、あらゆる学問は、本来は、哲学なのである。

そして哲学は、アルケー、つまり物事の原理をこそ問い求めるものであるということ、これを記憶にとどめていただきたいと思う。』

以上の点を理解した上で、では、前述の人間の妬みを考えた場合、それを理解するのはとても難しいことだと解るはずである。

どうして足をひっぱり、後ろから石を投げたりするのか?を理解出来ない時もあるだろう。

その多くは、利害の対立に起因する。

しかし、理解されない、理解出来ないことを悩むことはないと思う。

むしろ、理解される、理解出来ると考えるとしたら、それは「傲慢」というものである。

「傲慢」は、古代ギリシャ以来、「ヒュブリス」といって、最高の罪悪であるとされてきた。

とりわけて、政治上のリーダーにとって「傲慢」は許すことのできない罪悪と言える。

この世界を自分が所有し、一体となることを要求するからだ。

そこには、違いを認める思想がない。

多様な価値観を許容する心がない。

そんなリーダーが多い現代で、多様性を声高に叫ぶのだから、一体全体、何がしたいのか理解に苦しむ。

その時必要なのは、リーダーたちの意味のない言葉ではなく、世界を所有することはできないという事実に自分で気付き、理解することである。

そして、ただただ分かち合うことしかできないという思想を学び、哲学しながら行動に移すこと。

私たちの未来は、人間や国や文化の違いを受けとめ、この芳醇な世界がもたらす豊穣な大地の上で暮らす人々との多様性を、どう生きて行くかにかかっている。

最初から理解する、理解されるということは、相互の関係がぴったりと一体になっていることを意味している。

事実、そんなことはありえない。

だが、つい私たちは期待してしまう。

そこに弱さがあり、罠があるのだということにも気づいて欲しい。

そのことを、常に、意識しておくべきだと、そう感じる。

月日は過ぎて、現在。

彼らが、議論した万物の根源は、現代において、どう議論できるのだろうか?

そこで、「水」、「土」や「空気」と文明との関係性を理解する上で、以下の本等を参照してみた。

【参考図書①】
「文明と自然―対立から統合へ」(刀水歴史全書)伊藤俊太郎(著)

「気候文明史―世界を変えた8万年の攻防」(日経ビジネス人文庫)田家康(著)


「海の歴史」ジャック・アタリ(著)林昌宏(訳)


「水と人類の1万年史」ブライアン・フェイガン(著)東郷えりか(訳)

「文明の中の水―人類最大の資源をめぐる一万年史」湯浅赳男(著)

「水の恵みと生命文明」安田喜憲(著)

「空気と人類―いかに“気体”を発見し、手なずけてきたか」サム・キーン(著)寒川均(訳)

「土と文明」ヴァーノン ギル カーター/トム デール(著)山路健(訳)

「土の文明史―ローマ帝国、マヤ文明を滅ぼし、米国、中国を衰退させる土の話」デイビッド・モントゴメリー(著)片岡夏実(訳)

「土と内臓―微生物がつくる世界」デイビッド・モントゴメリー/アン・ビクレー(著)片岡夏実(訳)

「土・牛・微生物―文明の衰退を食い止める土の話」デイビッド・モントゴメリー(著)片岡夏実(訳)

「土 地球最後のナゾ―100億人を養う土壌を求めて」(光文社新書)藤井一至(著)

「大地の五億年―せめぎあう土と生き物たち」(ヤマケイ文庫)藤井一至(著)

「土が変わるとお腹も変わる―土壌微生物と有機農業」吉田太郎(著)

「土木と文明」合田良実(著)

「土木文明史概論」(土木教程選書)合田良実(著)

「水」も「空気」も、とても、大切ではあるが、地球上の人が100億人になったとして、それを養うだけの土壌が存在しえるのか?

当たり前の事では有るが、いくら仮想空間が素晴らしい世界を提供してくれるとしても、食べないわけにはいかないのが私たち人間の性である。

何事も土台がしっかりしていないと、砂上の楼閣になってしまうのだから、私たちが、この世界で生きる上での土台となる大地(土)の事を、もっともっと知る必要があり、現時点で私的な万物の根源は「土」ではないかと強く考えている。

例えば、以下の本に触れたことで、その思いは、更に、強くなった様に感じる。

【参考図書②】
「土をつくる生きものたち」(ちしきのぽけっと)谷本雄治(文)盛口満(絵)

生き物が関わり合うことにより土が生まれ、そのつながりにより土が維持されているという「生物間相互作用」を描いた絵本。

「栽培植物と農耕の起源 (改版)」(岩波新書)中尾佐助(著)

私たちが恩恵を受けている農業や食文化がどういう起源を持つかを探った古典的名著。

「土の科学―いのちを育むパワーの秘密」(PHPサイエンス・ワールド新書)久馬一剛(著)

『広辞苑』の「土」の語義を書かれた先生が、土の基本を網羅的に書いた本です。

「日本の米―環境と文化はかく作られた」(中公新書)富山和子(著)

田んぼをつくる土木工事には人々の協力が不可欠で、そのために集落が生まれ、国家が形成されました。

「土になる」坂口恭平(著)

「土って何だろう?」という疑問に、著者独自の視点で答えているエッセイ。

生命を産み出し育む大自然を母のような存在として擬人化した表現である「母なる大地」で思い出したのだが、卒業式で『大地讃頌』を歌った方はいらっしゃるだろうか?

中学校の合唱コンクールや卒業式で歌われる機会が多い『大地讃頌』は、1962年に作曲された合唱曲『混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」』第7楽章(最終曲)。

『大地讃頌』
https://www.youtube.com/watch?v=uLWXXAVNAGs

「土の歌」は、キリスト教徒であり、太平洋戦争を経験した広島出身の作詞者・大木惇夫が、反戦・反原爆の立場から平和を訴える内容。

最終曲『大地讃頌』の歌詞では、母なる大地への感謝・讃美が繰り返し繰り返し述べられ、人間が生きる自然環境を称える崇高な内容となっている。

しかし、現実の大人社会が『大地讃頌』していないことに気付かされることのなんと多いことか。

私が言えた義理じゃないが、理想的な素晴らしさを子供達に歌わせながら、現実的な醜さを見せつける。

滑稽としか言いようがない現実社会。

母なる大地を・・・・・・

母なる海を・・・・・・

母を・・・・・・

大人は切り裂き、削り取り、掘り起こし、コンクリートを流し込み、塗り固め、その上に立ち、その建造物に囲まれて、我々は生きている。

そんな大地にしておいて、それが無かったかの様に振る舞い、現実の世界では飽き足らずに、別世界へ行こうなどと、可笑しくないか?

普段、あまり考えることがないが、地中で生活してる多くの生命を殺し、住居を奪い、人間本位に生きている。

中国制作アニメーション映画『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』には、「人間と〇〇の共存」というテーマが描かれており、作中で、”正義が入れ替わる”場面があるのだが、現代に通じるものがあって面白い。

映画『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来』
https://www.youtube.com/watch?v=jCGrrhRQFJs

そう、それが現実である。

それがこの世の理であり、言い換えると、それが経済。

そう教育されてきた。

そこに愛はない。

例えば、この愛について、ウラジミール・ジャンケレヴィッチという現代フランスの哲学者は、愛についてのエッセーの中でこう言っていた。

「人間の愛には時として二つの姿がある。

相手を所有したいという愛と相手に所有されたいという愛である。」

前者を「食人型」と言い、後者を「陶酔型」の愛であり、どちらも自分という存在を失くし、相手と一体になろうとする。

しかし、ジャンケレヴィッチは、この二つとも本当の愛ではないと言っている。

本当の愛は、複数の関係の中で生まれるものであると。

異論もあると思うが、相手を所有してしまうということは、この複数の関係を否定して、一つになろうとすることに他ならない。

そこには、もはや本当の愛はなく、ただ所有欲だけが残るのであると。

それがジャンケレヴィッチの言葉であり、そこに人間の「放漫」さが見え隠れする。

理解についても同じであり、かつて、カール・マルクスは、「人間的存在は社会的諸関係のアンサンブルである」と言っていた。

関係ということは、そこには、複数の存在が必要となる視点を見誤らない様にしないといけないと思う。

自分と異なる相手を理解できると考えてしまうことは、この複数の人間相互の違いから目をそらすことを意味しているのだから、愛の話と同じように、相手を所有できると考えることになってしまう。

それは、広義に自然に対する現代人の「放漫」的な考え、支配できるとの思いやがりに通じるものが有ると感じる。

人間は、他の動植物や、空気や水、そして土無しでは生きられないのに、それらを汚して、人間だけが生き残る等という考えは妄想であり、且つ、放漫でもあると思う。

「脚下照顧」

子供は、いつまで子供でいるというのだろうか?

経済を回すために地球を破壊し続ける行為が、如何に愚かな行為か、気付く時は来るのだろうか?

他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性をよく見つめよという戒めに耳が痛む。

それらを汚した報いは、必ず人類という一本の糸に返ってくる。

それがいつかはわからないが、必ず返ってくる。

それを知っている人たちが、現実の世界から目を背けるように導いているのが、デジタル社会と言われる世界ではないかと思わずにはいられない事が多い。

いや、もう既に、徐々に、急激に、報いは返ってきているのだろう。

私たちが知り得ない環境下で・・・・・

「看脚下」

明るい事が少ない現代。

周囲が突然暗闇に覆われているような事態に陥ったときも慌てずに自分の足元に目を向け一歩一歩を確かめて進めば道も開けてくると信じたい。

悩むことや迷うことがあったときには、今自分の置かれている場所をよく見て、落ち着いて一歩ずつ前進していきたいと思う。

母なる地球は、浄化の為に、止まることなく回り続けているが、それでも止まった時に、あるのは死なのだろうか?

人間も止まりはしないだろう。

いや、もう、止まれない状況にあると言える。

止まった時は、死ぬ時。

人間も昔は、自然とともに生き、種々の淘汰の憂き目にあっても、母なる地球と一緒になって、浄化の為に回っていたのに、今は、グローバル経済の旗印を掲げて、破壊の為に世界を回っている。

ここまでが今。

さて、じゃ、ここから先はどうしていくのか?

多様性が叫ばれている現在。

では、その多様性を上手く使って、共存の為に、母なる大地と一緒に回る軸に世界が移行していけば良いのではないだろうか?

その為には先ず、環境破壊行為を減らして、共存行為を増やしていけば良いと考える。

色んなステークホルダーがいて、なかなか思うように行かないことの方が多いと推測される。

しかし、人の心も政治も社会も、その様に軸が移行して行けば、まだまだ、望みはある。

人間まだまだ捨てたもんじゃない。

私の知らない世界で、いたるところに広がるやさしい世界はあるはず。

愚かな人間になるな。

乏しい人間になるな。

無知は罪である。

そう信じられる根拠が歴史に存在している。

【参考図書③】
「全世界史〈上〉」(新潮文庫)出口治明(著)

「全世界史〈下〉」(新潮文庫)出口治明(著)

出口治明さんも、以下の様に言われていた。

「こうした歴史をみると、人間の愚かさ加減にはほとほと愛想が尽きそうになりますよね。

5000年の歴史を振り返っても、人の世というものが、ずいぶんいい加減で愚かしいものだということがよくわかります。

しかしこれだけ愚かな人間がこれだけの愚行を繰り返してきたにもかかわらず、人類は今日現在も、この地球上で変わらず生きているのです。

それはいつの時代にも人類の歴史から少しは学んだ人がいたからだという、たったひとつの理由に尽きるのではないでしょうか。

将来、世界で何が起こるかは誰にもわかりませんが、それに備える過去の教材はしっかりとそろっています。

人類自身が文字にしっかり残している。

歴史のすばらしいところは、人間がやってきたことを後からケーススタディとして学べることにあります。

最新の脳科学が教えるところでは、人間の脳は少なくともこの1万年の間はまったく進化していないとされています。

男性はかわいい女性が好きだし、女性はかっこいい男性に引かれる。

欲もあれば嫉妬もあるし、たくさん働けば何かおいしいものを食べたくなる。

だとすれば、いまの僕らの悩みは、古今東西の人々がすでに経験してきたこととまったく同じなのです。

ですから、歴史はケーススタディや教材として古びることはない。

こんなに効率がよくて優れた教材はほかにはないのです。

そういう優れた教材としての歴史から学ぶことが、人類や個人個人がいろいろな場面で困難に遭遇したとき、必ず何かの役に立つはずだと思っています。」

そうであるなら、希望の光はさしていると、そう信じている。

だからこそ、私たちは、もともっと学び直す必要があるのだと、そう強く思う。

子供達の未来を本当に考えるのなら、大人がその手本を示し、道筋を作ってあげなければならない。

『大地讃頌』を歌わせながら、水・空気・大地を汚していては、説得力は生まれない。

子供にまともな常識を説明しても、大人の生き様がまともでない常識にハマっていたら、説得力は、当然、生まれやしない。

現在のネット上には、数多の「利害」や「妬み」が存在している。

先人達が教えてくれる歴史を教訓にして、先人達から培われてきた素晴らしい自然界との共存の精神が、新生する現代社会と共存できたなら、未知なる世界が広がっているかもしれない。

仮想空間には、当然、空気や水もなければ土もない。

それに変わるものは何か?

その世界の万物は、電気であるかもしれない。

では、その電気を、どの様に、生み出すのか?

それ以外の何かなのか?

水を汚し、土を汚して生きている人類が、新世界として憧れる仮想空間の原理を、議論し、どう規定するのか?

現時点で、それを議論できるだけの知見と視野が私に乏しいのは否めないが、ひとつ言えることは、デジタル世界(「メタバース」と「スマートシティ」、そして「サステナビリティ・トランスフォーメーション」等)が現実世界とつながる空間と定義されるのだとしたならば、「利害」と「妬み」が存在する現実社会を直視して、それを克服(生活の基盤である母なる大地を整える事等も含めて)できなければ、仮想空間上でも同様な事が発生する可能性が高いと考えられる。

その存在の克服こそが、超えなければいけない一番の障害であると推定する。

その障害を克服できた、もしくは折り合いをつけれた先の未来。

仮想空間の世界は、新しい現実を視せてくれるのではないかと、そう感じる。

最後に、私が「土」が根源であると感じる出来事をひとつ(^^)

「土から離れては生きられないのよ!」

これは、宮崎駿監督の長編アニメ「天空の城ラピュタ」で、シータが、ムスカ大佐に向かって、言った言葉です。

「今は、ラピュタがなぜ滅びたのか、私よくわかる。

ゴンドアの谷の歌にあるもの

土に根を下ろし、風と共に生きよう  種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう

どんなに恐ろしい武器を持っても  沢山の、かわいそうなロボットを操っても

土から離れては生きられないのよ!」

どんなに文明が発達しても、土から離れては、生きていけないということは、人類の歴史が証明しています。

人も人と離れては生きていけません。

いがみ合い、憎み合う姿勢からは、滅びがあっても、生き抜くことは、困難です。

人類に必要なのは、そうだな~喜びと笑顔ですかね(^^)

【ジブリ】天空の城ラピュタ / 君をのせて・井上あずみ (フルVer.) Studio Ghibli Cover
https://www.youtube.com/watch?v=N8E8N1ePoOk

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