【雑考】絵画的風景写真と絵画と短歌と
写真の世界にも、絵画的風景写真があり、齋藤朱門さん曰く、
「風景の記憶の一片を作品を通して伝えることを可能にする表現方法の一つ」
なのだそうです。
この考えは、単純に、写真を絵画のように見せるということではなくて、写真を観ている人が、まるで、その場にいるような感覚を感じて欲しいという思いから、行き着いた表現方法とのことだそうです。
絵画的風景写真を撮る上で重要なキーワードが2つ。
「没入感」と「印象の再現」。
ここには、過去4回(春2回(その内1回は夜)・夏1回・冬1回)訪れていて、真冬の雪景色の中、ほとんど人のいない川沿いを歩くリバートレッキング中に撮影した時の風景写真です。
レンズを通して世界を覗くと、肉眼で見るのとは違う世界を見ることができます。
例えば、開放近くのF値、広角、望遠というのが、まさにそれですね(^^)
風景写真の場合、雲ひとつない快晴も美しいけど、そこに面白味をプラスしようとすると、雲の形や空に占める割合に、かなり左右されるそうです。
だから、風景画を描く人も、きっと、青空に、雲をどう配置しようか、いろいろと考えていたんじゃないでしょうか。
「白色の絵具ばかりを買ひ足してゐた頃のこと雲を見ながら」
(山下冨士穂『覚書』より)
みなさんは、雲を見て、どう感じますか?
山村暮鳥の「雲」の中の一篇では、こう表現しています。
「雲」山村暮鳥(著)
「おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか」
「世界でいちばん素敵な雲の教室」荒木健太郎(著)
「雲の教室」の先生は、雲研究者の荒木健太郎さん。
雲のしくみや雲との出会い方を美しい写真とともに解説し、雲との上手な付き合い方を教えてくれます。
ちなみに、雲にも性格があって、元気な雲や、おとなしい雲がいるそうです(^^)
「雲は空を見上げればほとんど毎日出会える身近な大自然です。
雲がいるから空は彩り、輝き、涙も流してくれます。
雲にはさまざまな種類があり、絶えず姿も変えます。
その出会いは、一期一会なのです。
そこで、みなさんが雲との出会いをもっと楽しみ、その心を感じられるように、本書を執筆しました。」
(「はじめに」より)
そんな短歌や詩等からイメージされる、スカッとした青空に雲が広がる絵画作品としては、以下かな(^^)
印象派の画家ジャン=バティスト・アルマン・ギヨマンの、澄んだ青空が一面に広がり、都会の風景とは違った、田舎ならではの自然が美しく描かれている作品「パリ郊外」。
フランス生まれのイギリス人画家アルフレッド・シスレーの、洪水の後の青空が特徴的な作品「洪水と小船」。
シスレーが、ロワン川周辺に住んでいた頃に描いた作品「サン・マメスのロワン河畔」。
風に吹かれている様子が非常に美しくて、印象派、クロード・モネの女性が、川岸の土手の上から眺めている様子を描いた作品「日傘をさす女(右向き)」。
ベニスのサンマルコ広場をテーマに描いた、印象派であるピエール=オーギュスト・ルノワールの、あまりの美しさから、ウズベキスタンの切手にも描かれている作品「ベニスのサンマルコ広場」。
みなさんは、どんな絵画がイメージされますか?
少しテイストの異なるかもだけど、雲の表現が素敵な、ルネ・マグリットの作品「大家族」。
そうですねぇ、絵画以外のアートだと、街中にある、こんな雲を見たことありませんか?(^^)
風景写真や絵画の様に、現実世界を、少し違った角度から捉えることが、面白いなって思います(^^)
【参考記事①】
【関連記事】
【随筆】時をつかむ
https://note.com/bax36410/n/nc073821f5273
さて、日本の国の訪ねゆく先々に、偉人、先人の残された跡、言葉、作品が待ってくれています。
知っていたり。
偶然であったり。
出合うべくして出合う。
その時代。
その人物。
その作品達を思い。
心を徐々に大きくし。
そして、今を生きている私達がいます。
例えば、写真では、自然の美しさを、自分の目で見て、感じると同時に、写真という形で切り取り、伝えたいと思って撮影しているのではないでしょうか。
それと同時に、記憶にも焼き付ける。
ゴッホの終篤地オーヴェルのガッシエ医師の家を訪ねた日本の精神科医である斎藤茂吉は、以下の短歌を残しています。
「一向に澄みとほりたるたましひのゴオホが寝たる床を見にけり」
「斎藤茂吉歌集」から、
「斎藤茂吉歌集」(岩波文庫)山口茂吉/柴生田稔/佐藤佐太郎(編)
ゴッホ関連の歌をピックアップしてみると。
「ヴァン・ゴョホつひの命ををはりたる狭き家に来て昼の肉食す」
「木の下に梨果(なしのみ)が一ぱいに落ちて居り仏蘭西田園のこの豊けさよ」
「あたたかきNice(ニイス)の浜に寄する浪園(なみその)のなかなる花」
「かぜむかふ欅大樹の日てり葉の青きうずだちしまし見て居り」
「かがやけるひとすぢの道遥けくてかうかうと風は吹きゆきにけり」
前述の「かがやけるひとすぢの道・・・」の一首は、
「歌集 あらたま」(短歌新聞社文庫)斎藤茂吉(著)
本歌集に収録されている代表歌のひとつである、以下の短歌に通じるこのがあり、
「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」
ゴッホが、日本美術から影響を受けて生まれた作品たちが、時代を超えて、日本人が彼の作品からインスピレーションを受け、そして、新たな作品へ紡がれていく不思議。
訪ねたことのある地での短歌は、知らない所の短歌より、ずっと多くのことが感じられるのかもしれませんね(^^)
「百聞は一見に如かず」
大変な意味を持つ言葉であることを、改めて気付かされます。
「斎藤茂吉のヴァン・ゴッホ―歌人と西洋絵画との邂逅」片野達郎(著)
【参考記事②】
上野公園にある西洋美術館は、
日本唯一のル・コルビュジエの設計になる建築でしたね。
本書は、国立西洋美術館で、2000年にひらかれた「西美をうたう 短歌と美術が出会うとき」展において、西洋美術館所蔵の絵画や彫刻を素材として短歌を詠むという趣向でまとめられたカタログです。
「西美をうたう:短歌と美術が出会うと」
この試みって、古典的和歌の世界に近いそうです。
歌とは、すべて機会詠・題詠である。
求められたあらゆる機会に歌が作れないようでは、練達の(プロの)歌人とは言えないとも考えられるのだとか。
そう言えば、永田和宏さん著作である「作歌のヒント」に、
「作歌のヒント―NHK短歌」永田和宏(著)
機会詠について書かれており、これは、3・11とか湾岸線戦争、阪神大震災など、実際の社会的事件や出来事をモチーフにして詠むというものだそうです。
詩にも同じ様な考えがあって、機会詩とは、元は、ドイツ語の訳語「眼前の事象に触発されて、折にふれて感懐を歌った詩」とのこと。
永田さんは、以下に示す湾岸戦争の機会詠を引用して、ものを見る際の注意点を説いていました。
「海鳥は油にまみれ生きている映像に幾度も一羽のアップ」
「住まい変ええぬ水鳥悲し打ち萎え原油の海になお潜りゆく」
「放出の原油にまみれ海鳥のよたよた歩むペルシャ湾岸」
この機会詠においては、メディアの情報の中に、誰かの視点の介入を疑わないまま受け取ると、かくも画一的なものの見方になるという好例だそうです。
これは、物事のなぜを考える際にも大切な視点であり、受け取った情報を考え直す際にも有効ですね。
永田さんは、この例をして、
「送り手がメッセージとして伝えようとしている内容からいかに離れて、自分の視線で画面を見ることができるか、これが機会詠が成功するかどうかの分かれ目」
だと指摘されており、大変参考になりました。
これに対して、俵万智さんは、
「短歌をよむ」(岩波新書)俵万智(著)
の中で、「自分はわざわざ何かを見て短歌を作るのが苦手だ」と述べておられて、内発的動機によって作歌するというプロセスを重視する立場だったんですね。
そうであれば、文芸を、個人の内面の投射と見る近代的芸術観と合致しています。
だとしたら、昨年、参加していた「みんなの俳句大会」の企画で、曲とか絵画とかから短歌を作歌するのは、機会詠・題詠であり、古典的和歌の世界だったのだと、今になって知る、お馬鹿さん^^;
この点を踏まえて考えてみると、前述の「西美をうたう」での作歌って、古典的和歌の世界だけど、近・現代短歌の歌人たちの方々は、どう詠われるのか、とっても興味深いですよね(^^)
そう言えば、古来、西洋では、
「絵は黙せる詩、詩は語る絵」
と言われてきました。
日本でも画賛、詞書が絵画の重要な役割を果たし、詩書画の一致を成してきました。
一方、日本の近代洋画は、文学からの自立を目指した西洋近代美術の影響のもとで始まります。
しかし、現実の生きた情感から浮き上がった作品も多く生まれたことも事実であり、こうした中で、
村山槐多、
長谷川利行、
古賀春江、
「水彩は長篇小説ではなくて詩歌だ。その心算(つもり)でみて欲しい。
水彩はその稟性(ひんせい)により、自由にして柔らかに而(しこう)して淋しいセンチメンタルな情調の象徴詩だ。
そのつもりで見て欲しい。」
「水絵の象徴性に就て」『みづゑ』1920年8月
三岸好太郎、
北海道立三岸好太郎美術館
https://artmuseum.pref.hokkaido.lg.jp/mkb
山口薫等は、
西洋近代美術を学びながらも、文学性や詩情を拠り所にとして、優れた作品を残しています。
更に、また、ご存知の通り、詩の世界では、宮沢賢治、
立原道造、
草野心平らが、
独自性のある絵を描いていましたね。
「詩人たちの絵」(平凡社ライブラリー オフシリーズ)窪島誠一郎(著)
この歴史的事実は、ある意味において、モダニズムが斥けてきた詩情や文学性を活かすことで、日本独自の絵画が成立したと言えるのでしょう。
近年では、一部の画家たちが積極的に詩の世界に接近し、新しい表現を生み出そうとしているそうです。
「画家の詩、詩人の絵 - 絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」土方明司/江尻潔(著)
「小熊秀雄ー絵と詩と画論」小熊秀雄(著)
「詩的言語と絵画 ことばはイメージを表現できるか」今野真二(著)
「絵画と短歌の対話―歌書」星田郁代(著)
「虹のくじら」大宮エリー(著)
可能であれば、俳句や短歌、川柳なども含めて、この企画の様に、絵画と密接なつながりを持っていければ、新たしい表現が生まれるかもしれませんね(^^)
さて、そんな個人的な期待も込めて、このカタログから、幾つか、紹介してみますね(^^)
■オーギュスト・ロダン「考える人」
「雨の日も考えている、君のこと遠き星のごと近き樹のごと」佐々木幸綱
「百年じゃあ答えが出ない人間は樹木は生きて何をしている」小島ゆかり
■オーギュスト・ロダン「地獄の門」
「満月は半分欠けたが地獄の門はまだ見えるなり」高瀬一誌
「ほのぐらき意識の奥に地獄門立てり逆巻く阿鼻叫喚のこゑ」森山晴美
■ピエール=オーギュスト・ルノワール「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」
「透きとほる肌と妖しく光る眼と遠き記憶の海に漂ふ」来嶋靖生
「湖代に逢ふこころ揺らぎて身じろぎし足首白きに鳴る鈴の音」古谷智子
■ダフィット・テニールス(子)「聖アントニウスの誘惑」
「美女裸女に
かこまれ魂も
蕩けなむ
聖者は天見る
天の神見る」岩田正
■エドヴァルド・ムンク「マドンナ」
「限りなくやさしい君に添寝するタプタプタップ海のようだね」奥村晃作
■ギュスターヴ・モロー「牢獄のサロメ」
「背後にて斬首まつヨハネを意識してサロメはうつむき眼線およがす」松坂弘
「守るべき女の誇りに奪らむ首 夜の牢獄黄の薔薇かおる」佐藤洋子
■クロード・ロラン「踊るサテュロスとニンフのいる風景」
「喜びは森にあふれてニンフらの踊りに山羊まで踊り出したり」藤岡武雄
■アリスティード・マイヨール「イル・ド・フランス」
「夕闇に溶けゆくネーブル・オレンジと蠅をみていたあのまなざしは」穂村弘
■ジャン=マルク・ナティエ「マリ=アンリエット=ベルトレ・ド・プレヌフ夫人の肖像」
「こころなき泉の精となり果ててきよきをのこも影とのみ見む」水原紫苑
■ギュスターヴ・クールベ「罠にかかった狐」
「肉体の思想激しく叫ばんに十九世紀夢の波濤よ」福島泰樹
■クロード・モネ「睡蓮」
「水の上にかがやくをとめ。水底にともなふ翳をしらず漂ふ」岡野弘彦
「睡蓮は水の恋人、くれなゐのまぶた明るく閉ぢてひらきて」岡井隆
■キース・ヴァン・ドンゲン「カジノのホール」
「羅(うすもの)の女ささめくカジノの夜 “oui, oui,, “mais, non”,, 恋も賭けるの」松平盟子
■マックス・クリンガー「『手袋』:キューピッド」
「人恋ふる夜明けの部屋にみづみづと春の花木となりし手袋」秋山佐和子
■ギュスターヴ・クールベ「もの思うジプシー女」
「百年の受容ののちの夕微光ここ出でて春の橋わたるべし」谷岡亜紀
■メランコリア
「西洋細密画よりまなこを転じみるものは境もあらぬ大和の桜」小池光
【参考図書】
「現代短歌の修辞学」三枝昴之(著)