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仕事の合間のカフェ・ブレイク♪

まぁ~、なるようになれぇぇぇ!!!って感じ、大切だよな~って考えています。

ダメな時はダメ、実際、人生はなるようにしかならないのですが、自分の限界を知るという事は、物事に挑戦しようと心がける人にとっては大変重要な事だと思います。

その開き直りが大事なんですけど、ね。

くよくよと細かいことを考えてみてもはじまらない。

うまくいくとか自分をよく見せようと思うから気になるのです。

等身大の今の自分でしかない。

それでいいではないかと思います。

人がどう思おうとそれは結果でしかない。

やることをやればいい。

不安な気もちになった時の極めつけの幸せになる考え方は、「なるようになる」と思えるかどうかです。

そう思える様なヒントとなる逸話があります。

だるまさんの愛称で知られる中国禅宗の開祖である達磨大師は、ある日、修行をしていた弟子の慧可大師に「心配で落ち着かないので、この心配を取り除いてください。」と頼まれます。

そこで達磨大師は、「その心配をここに差し出したなら、取り除いてあげよう。」といい、これを聞いた慧可大師は、ハタと気づきます。

「そうか。心配は心が生み出したもので、実体はないのだ」と。

そうです。

心配には実体がないのです。

考えてみると、私たちは、実体のないものに、ずいぶんと多くの時間をとられているものです。

別の見方をすれば、心配に心を奪われている間は、”今”を見る目は、完全に留守になっている状況ですよね(^^;

何か心配事があると、それこそが一大事だとばかりに日常を置き去りにして右往左往しがちですが、白隠禅師(江戸時代中期の禅僧。臨済宗を復興させた。)の師である正受老人は「一大事とは、今日只今の心なり。」とおっしゃっています。

今、この瞬間に意識を集中することこそが、一大事であるという意味であり、禅は、常に今に焦点を当て、今の連なりが現在であると考える”ing”の思想ですよね。

常に動き続ける今に心を寄せる練習を重ねることが、心配を手放し、幸福を引き寄せる近道なんだと、気付けると思います。

この禅の思想は、一つのところにとどまることを嫌う点が特徴的ですが、心配に心奪われた状態は、答えが見つからないだけに長くとどまってしまいがちで、まさに身動きがとれない状態と言えます。

そのとらわれてしまった場所から自分を解放してあげるためには、ひとまずでいいから、答えを出してしまうことがポイントとなります。

そう、魔法の言葉は、「大丈夫」「なるようになる」です。

実際にそう口に出して、未来のことはそれ以上考えないクセをつけてみては如何でしょうか?

大丈夫。

なるようになる。

なるようにしかならない。

そうやって心配事を少しづつでも手放せていければ、未来に向けていた視線が現実へと引き戻されて、嫌でも目の前にあるモノ、コトに焦点があってくるはずなので、そうなれば、今が生きる中心にきたとき、人生への向き合い方そのものに変化があるはずです。

では、あなたが過去に悩んだり不安に思ったことは、その後どうなったでしょうか?

意外となるようになったのではないでしょうか。

問題の結末は、それも自分で解決したわけではなく、自然消滅した問題も多いのではないかと思います。

一時的に不幸になったとしても、やがてふつうに暮らせるようになれたのではないでしょうか。

結局、なるようになったのだと考えられますよね(^^)

いい加減な考え方と思えるかもしれませんが、なるようになるというのは、必ずうまくいくということではなく、うまくいく時にはうまくいくし、うまくいかない時にはうまくいかないといった、ある意味、出来事を上手く受け流す考え方です。

そういう結果になるのには原因があるはずです。

ジェームズ・アレンは、「私たちがこれまで考えてきたこと(原因)が、 私たちを、いまの環境(結果)に運んできたのです。恵みがほしいならば、恵みを蒔くことです。」と、原因として、自分の考え・思いを挙げています。

まず、自分が何を望むか。

それが“種”となります。

そのために、何をやるか。

それが“蒔く”ことにつながっていきます。

実際には、やり続けるか。

このことが“水をやる”ことになります。

自分が望み・考えた「案」が、自分の行動「因」につながり、やがて結果として実現するということです。

何かになりたければ、まず、自分がそれになれる望みをもつこと、その望みを叶えるために行動を起こすこと、望みが叶うまで努力を続けることと、当たり前のことのようですが、それをいかに実践するかが時に困難な問題となります。

そのために、まずは、自分がそれになれると思う望みをもち、自分の望みが叶うことを強く願うことから始まっていきます。

それが自分の心に夢や希望の種を蒔くことではないかと思います。

原因(因)は自分の考え(案)から生まれますが、でも、同じ因をもっていても、同じ結果にならないことがあります。

たとえば、同じように努力しているのに、同じような能力があるのに、成功する人としない人がいるのも現実です。

たとえば、同じ悪いことをしているのに、その罰を受ける人と受けない人がいます。

たとえば、同じような環境で生活しているのに、いい出会いがあった人と、いい出会いがない人がいます。

その理由として考えられるのが、「運」と「縁」です。

「運」に恵まれた人が成功する。

「運」が悪い人は失敗する。

「縁」に恵まれる人がいる、一方、「縁」に恵まれない人がいる。

「運」と「縁」は、多分に他力のものですが、自分にもできることもあるはずです。

では、「運」をよくするためには、どうしたらいいのか?

時運・流れを読む、チャンスが来るまでしっかり準備をして待つ、チャンスを見逃さずにものにする・・・・・・など、いろいろ考えられると思います。

また、「縁」に恵まれるためには、どうしたらいいのか?

出会いを求めて行動する、一見小さな出会いを大切にする・・・・・・など、これについても、いろいろと考えられますよね。

実は、このような努力をすることも、良い「因」となって、良い結果につながるのだと思います。

「運」や「縁」を大切にするような考え(案)を心がけることも、実は、とても大事なんですよね(^^)

つまり、そのように心がけたとしても、なるべくしてなる、なるようにしかならないことだって多い、ということだと思います。

結果を気にしすぎたり、人にどう思われるかを気にしすぎたりしていては、いい努力はできないでしょう。

今の自分にできるベストを尽くすことが大事なことなんですね。

やれるだけやったのなら、あとは「なるようになる」と開き直ったほうがいいのではないでしょうか。

果報は寝てまてとも言うし、コーヒーでも飲みながら、気分転換して、ブレイクスルーできたらいいですよね。

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