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【人生ノートMagazine】念うところ世界なり

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人生ノートの中から人生の生き方や日々の生活に沿ったことについてに書いてあることに焦点を当ててまとめてみました。
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#環境

神のひとり子、出でよ

七むずかしい理屈を知っている人は仰山いる。しかも彼らは、何もなし得ない。せいぜい、書物をあらわしたりするくらいのものだ。 学識という点からいうと、キリストにどれだけの素養があったか。ナポレオン、ジャンヌダークにどれだけの素養があったか。 人間の魂を、直接、うごかすものは何か?それは、人間の、より偉大なる魂である。 理屈はもう結構だ。理屈を超越した偉人が出さえすればよい。目に一丁字なくて結構だ。目にもの見せてくれる真人さえ出れば文句はない。 こんな紛糾した世の中には

日日の修行へー平静な気持ちで生きてゆくことー

わたしは<現実のこと時事に複雑な世の中に生きて、にこやかな平静な気持で生きてゆくことこそ”修行”である>と思います。 いやな気持になることの多い世の中で、いつもあたたかい気持をもちつづける努力こそ”行”というものだとおもいます。 ーー満員列車の中で、たくましい男が座席をほしいままに奪い、ふんぞり返っているーーそういう嫌悪を感じさせる者にも、平静に善処してゆくという、なんでもないような至難なことに修行があるとおもいます。 その日その時の感情(こころ)を直く、落ち易い気持を

何かに向かって働くのが人生だ

何かに向かって働くのが人生だ ○ 希望と目標なしに、無闇やたらに焦りまわってもダメ。 ○ 空想でない、ごく卑近なところへ目標をおいて、一歩一歩着実に向上してゆけ。 これまでのお示し 万事が有り難く結構 https://note.com/azumanohikari/n/n1fe57f22e828 日の出の歌うたわむ https://note.com/azumanohikari/n/nacc729291f95

万事が有難く結構

やはり、どう考えてみても、人生に一番貴いものは体験である。体験の深刻な人、豊富な人ほど、どことなしに輝いている、落ちついている。いろいろな境涯をへて来たあとでなければ、人は、何もできるものではない。 この意味からいって、われわれは何をしていても、させられていても「有難い」のであり、「結構」なのである。 ものを見別ける力のない者が上に立っていたら、もはや、その事業の底は見えている。 人の世は、まァざっと、こんなものだということを悟って、小さいことにビクビクしたり、善じゃお

天地一切へ感恩

天地一切に対する恩ということを、しみじみと知らねばならぬ。 真に心の底からこのことが分かって来れば、人なり物なりを損うということはできぬ。一切をそれぞれに活かしてやるということが分かる。 どんな微細なものに対しても、“有難い”“ご苦労だ”という気が起きる。 自己直接の利害にばかり気をとられて、どうしても、大局的に、天地一切に対するご恩報じ、ご奉公ということが忘れがちになる。 すべてのものに感謝し、心からの好意をよせて、これを取り扱うようにせねばならぬ。 自分というものが

反省と忍耐

導かれる方の人は、決してあせってはいけない。一日一日、一歩一歩と悟ってゆき、進んで行くようにせねばならぬ。これらの人々にとっては、反省と忍耐とが何よりである。この二つを忘れぬように、そして導かれるままに、一心不乱にすすんで行きさえしたらよい。 反省することは、真に“知る”唯一の手段である。内に省み外に省み、ここに始めて自己を知り他を知り、やがて神を知ることができるのである。反省のないところに改悟はなく、自らの改悟のないところには新生はない。 永久に同一世界にうごめいている

各人各個の道を有す。

日常の生活において、心に結ぼれや引っかかりや、凝りがあってはならぬ。それでは、心身ともに早く疲労して老人になってしまう。 世人を見るに、彼等はいたずらに人まえのみを繕うことに汲々として、心中つねに不安を感じ、いらぬ気苦労のみをしている。 人と相対して談話する場合でも、お互いに堅くなり合って、いわゆる他人礼儀一遍で、真に心からの打ちとけたところがないから、実際、はたから見ていてもバカバカしい。 神経質の人などは、ちょっと寝床が変わってもよう寝れないというふうであるが、こん

精神的収穫が大事

すこし調子づくと、すぐ自分はえらいと思い出し、少し失敗すると、すぐ身も世もあらぬようにショゲるのは凡人の常だ。要するに、われに信念ができていないからだ。真智が足らぬからだ。無限の法界の理を知らぬからだ。いままでの生活があんまり単調なからだ。 誰でも、自分はいままで、いろいろと苦労してきたとか、いろいろと学問してきたとか、それ相当に「吾こそは」と思っていがちなものである。ところが、それが非常に邪魔になって白紙になれず、他人の長所を素直に受け入れることができぬのである。 いく

この世をおだやかに美しくする基本

どんなに寛大であっても、あとから「ああ、あのときはあまり寛大すぎた」と悔やむことはないが、常にわれわれが後悔するのは「もう少し寛大であればよかった」ということである。 しかし、寛大と因循姑息とは全然違う。因循姑息というのは、当然なずべきことをもなさず、いたずらにグズグズしているのをいうのである。 寛大というのは、けっして、つねに拱手傍観、逡巡無策のいいではない。 怒るべきときには怒り、叱っすべきときには叱っするのである。ただその気持ちに、あくまでも豊かなところがなくてはなら

その日その時のベストを尽くして

何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません。 天国へ行くのも地獄へ落つるのも、みな自分自身が平素からの心の状態がつもりつもって、必然的にそうなるまででありまして、けっして、神さまが連れて行かれるものでも、また社会がそう強いるものでもありません。みな、みずからの心の持ち方ひとつが作り上げるのであります。 『信仰覚書』 出口日出麿 これまでのお示し 一歩一歩の歩みに全力をそそぐ https

一歩一歩の歩に全力をそそぐ

人間は理想を遠方に見ていることはよいのでありますが… そこへ行こうと思うて、一生懸命に考えていることもよいのでありますが、しかし、行く方法を講ぜず、足もとの一歩一歩を注意せず遠くの方にばかり気をうばわれていると、牛が出て来たり、池があったりするのであります。 たいていの人が、よい所へ早く行きたい、はやく見たい、聞きたい、それで焦り過ぎる。理想というものを今の現実にすぐ持ってこようとすることは、なかなか容易にできないものである。 理想と同時に現実界ですぐやろうとすると非常に

己から出たものが己に帰るだけである。

どんなんもの、どんなことに対しても、歓喜の情をもって接すれば、 かならず、相手もまたうれしくなり、ありがたくなるものである。 これに反して、見知らぬ人に対して、ちょっとのことでも嫌忌の情をもって接すれば、かならず、相手もまた自分に対して嫌忌の情を起こさざるを得ないものである。 一升入りへは一升はいり、一合入りへは一合はいるだけである。 歓喜の情のいれものへは、すなわち悲哀が、ちょうどその容器の大きさだけ入り得るだけである。 吉凶、禍福、悲喜、善悪ことごとくは、己から出た

逆境に感謝せよ

逆境に感謝せよ 依頼心を起こすな 棄て身になれ 自分が大将をしたいという気持ちがあるから、他人の長所美点を見る雅量がなく、心中つねに自分より勝っている人を忌み、いたずらに、他の欠点短所のみを見つけ快哉を叫んでいるのである。 こうした心が人間にいかに多いか、みずから省み、他を観察してみるがよい。 われも楽しく、他人も楽しいというようなことのみにならねばならぬ。 自分で自分を公平にさばくようになりたいものだ。 悪いことはお互いに隠し合うように、すてておけぬと思ったならば、

あせってはいけない 油断してはいけない

理想を理想を見つつ現実をはなれず、しかも現実を一歩ずつ向上させねばならぬ。 永遠を仰ぎつつ現在をはなれず、しかも現在を一歩ずつ向上させねばならぬ。 ○ あせってはいけない。油断してはいけない。 突破!突破! すべてに現状を突破して、一路向上すべし。 出口日出麿著、『生きがいの探求』 これまでのお示し