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この世をおだやかに美しくする基本

どんなに寛大であっても、あとから「ああ、あのときはあまり寛大すぎた」と悔やむことはないが、常にわれわれが後悔するのは「もう少し寛大であればよかった」ということである。
しかし、寛大と因循姑息とは全然違う。因循姑息というのは、当然なずべきことをもなさず、いたずらにグズグズしているのをいうのである。

寛大というのは、けっして、つねに拱手傍観、逡巡無策のいいではない。
怒るべきときには怒り、叱っすべきときには叱っするのである。ただその気持ちに、あくまでも豊かなところがなくてはならない。すなわち、ある事件に対する方便としてとして憤怒し叱責したのであって、けっして、その人を憎み、もしくは恨んでいるのではない。一片の私意がなく、毒気をふくんでおらないある。形式の上では、まさしく憤怒であり、また叱責であるけれども、それは色でいえば、かがやいた淡紅色であって、けっして黒色をふくんでいない。だから対者にとっても、叱られたわりに、怒られたわりには、こころよく感じるのである。

われわれはいかなる場合においても、他を責めてはならぬ。自分自身に省み悟るべきである。
この心がけが、この世をおだやかに美しくする基本である。

『生きがいの探求』出口日出麿

因循姑息…古い習慣ややり方にとらわれて改めようとせず、その場しのぎに終始するさま。

拱手傍観…何も手をくださないで、わきでながめていること。

逡巡…決心がつかず、ためらうこと。しりごみすること。

これまでのお示し

その日その時のベストを尽くして
https://note.com/azumanohikari/n/nff7e300f7153

一歩一歩に全力をそそぐ
https://note.com/azumanohikari/n/n85c1035dd597

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