『飼い殻~KAIGARA~』
唯一の肉親だった祖母が死に、ボクの友達は絶望だけになった。
祖母だけは味方だった。
祖母はボクの全部だった。
女なのに「ボク」って言っちゃうのはどうしてなのか。
自分でもわからない。
ひたすらに絶望を研ぎ澄ませていると死の領域に入っていくしかなくて。そんな風にしか考えられなくなってしまうというのは、要するにボクはきっと、愚鈍な愚か者なのだろう。
死ぬ前に何か楽しいことはないかとふらりと入ったお店だった。看板には巻貝っぽい不思議な絵が描かれており、なぜか貝本体がいるべきはずの奥行きに果てしのない宇宙が広がっていた。店名はどこにも見当たらない。
一歩踏み入れた店内。色とりどりの“貝に似た何か”が雑然と並べられている。どれを取ってみても一度も目にしたことがない奇妙なものばかりだ。
試しに手前の小さな水槽の名札を覗き込んでみると『モヤシ貝』とある。はて面妖な。ざっと説明文を読む。どうやら雪国に多く生息しており、殻類の中では一番すらりとしたタイプらしい。
「フフ、可愛いでしょそれ」
ふいにこの世のものとは思えない澄んだ声が耳元で響いた。「ヒャッ!?」とおののきつつも、風鈴の音色のようにはかなく留まり続ける響きの余韻に支配されたせいか「もし声の世界にも透明度があるとしたら、確実にその頂点に君臨できるひとだ」と奇妙な確信を深め、いつのまにやら傍に立っていた声の主を見やった。
どうやら店主らしいその女性は、肌の透明感も尋常じゃなかった。ぱっと見20代に見えるけれど、もしかしたら30代かもしれない。いや、あるいは40代……や、100歳と言われても頷ける妖しいオーラをまとっている。
それでいながらクスクスといたずらっ子みたいに笑っているのだから、恐らく妖怪やもののけの類だと思う。
「……うまいんですか、これ」
おずおずとぶっきらぼうに尋ねたボクに、店主は一瞬きょとんとした顔をして、すぐにまたクスクスと笑いだした。
「これは食べるためのものではなくてよ。この子の場合はただそっと眺めて、大丈夫かなあ、まだまだひょろひょろして細いなあ、ちゃんと育つかなあって心配しながら鑑賞するタイプの飼い殻ね」
「カイ、ガラ? 心配する……?」
ちょっと何を言ってるのかわからない。
「そう。ここにいる子たちはそれぞれいろんな宇宙を秘めているのだけれど、飼うためのカラたちで……私たちの世界では“飼い殻”と呼んでいるわ」
「は、はあ……」
おもわず間抜けな声が漏れてしまったと思う。けれど女店主はそれも楽しそうに笑って構わず続けた。
「フフ、こっちのもっと細くて可愛くて、より頼りなさげなのがコモドモヤシ貝。観てみて、こんなに小さくてひょろっとしてるの。すごく心配になるでしょ?」
「コドモモヤシ?」
気さくな女店主に乗せられ、言われた通り眺めてみる。確かに小さくて細くて白くて、観ているだけで心配になってドキドキしてくる。
「コドモモヤシじゃなくて、コ・モ・ドモヤシ貝ね。ちょっと上級者向けだけれど。フフ」
片目でウィンクする人って本当にいるんだ、と思って聞いていたボクの目に、ふと深い青色の別の飼い殻が飛び込んできた。
「ああ、そっちは海泣き貝よ」
「海泣き貝? あ、耳に当てると潮騒が聞こえてくるとか、そういうタイプのやつですか」
「……きっと、それが貴方を呼んでいたのね」
「は?」
阿呆の見本みたいに口を開けてしまったボクを、まるで聖母の肖像画から抜け出したような微笑で見つめてくる女店主。ドギマギして思わず、その場から逃げだしたくなる。これから死のうと思ってる人間として、我ながらこんなうわずった態度はどうかと思うのだが。
「耳にあてて聞いてみて」
広い海の底のような色をした貝をそっと手渡されて、ボクは最後くらい全部受け入れてみるのもいいかもしれないな、などと都合よく考えて彼女の言う通り耳にあててみた。
「ざざーん、ざざーん……」と、はるか遠くの潮騒が耳の中でこだまする……と思い込んでいた。けれど聞こえてきたのは――まるで悲鳴を押し殺したような、もっとずっと悲しい、胸がしめつけられて痛くなるような、小さい女の子の泣き声だった。それがさめざめと耳の奥で反響して、瞬間、なぜかどっと涙が溢れそうになった。
「こ、これは……」
「ええ。海は海でも、この星の海の泣き声ではないの。これは自分の中の“海”の声を聞くための飼い殻よ」
「自分の中の、海……?」
はっとして貝を落としそうになる。
わかりたくなかった。
なのにわかってしまった。
だってこれは、どうしようもなく、ボクの……あたしの泣き声だったから。
女店主は少し前かがみになってボクに目線を合わせ、「それは貴方にさしあげるわ。大事に飼ってくださいね。この子は、嬉し泣きもできる子だから」と言って、両肩をそっと抱いてくれた。
帰り道、ボクの手の中には海色のあの飼い殻がある。捨てたい。捨ててしまいたい。こんなもの。衝動的にぎゅっと握って壊れないか試してみる。
耳にあててもないのにどこかから悲鳴が聞こえた。
……なんでこんなもの受け取っちゃったんだろう。
そうだ、やっぱり返そうこんなもの。冗談じゃない。急ぎ足で舞い戻ると、さっきまでそこにあったはずのお店はどこにもなく、綺麗な白砂が敷かれているだけの空き地になっていた。
でも、掌の中にはしっかりと海泣き貝が存在していて……泣いている……生きている。
その泣き声に思わずかっとして、地面に投げ捨て、踏みつけようとした。終わりにしようとした。
――できなかった。
意気地なし。空き地にペタリと座り込んで、自嘲気味に笑って、ボクも泣いた。海泣き貝と一緒に。
飼おうと思った。……あたしの飼い殻を。