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【読書】センス・オブ・ワンダー by レイチェル・カーソン


あらすじ

化学薬品による環境汚染にいち早く警鐘を鳴らした書として、いまも多くの人々に読み継がれている名著がある。『沈黙の春』だ。その著者レイチェル・カーソンの遺作として、彼女の友人たちによって出版されたのが本書である。

本書で描かれているのは、レイチェルが毎年、夏の数か月を過ごしたメーン州の海岸と森である。その美しい海岸と森を、彼女は彼女の姪の息子である幼いロジャーと探索し、雨を吸い込んだ地衣類の感触を楽しみ、星空を眺め、鳥の声や風の音に耳をすませた。その情景とそれら自然にふれたロジャーの反応を、詩情豊かな筆致でつづっている。鳥の渡りや潮の満ち干、春を待つ固いつぼみが持つ美と神秘、そして、自然が繰り返すリフレインが、いかに私たちを癒してくれるのかを、レイチェルは静かにやさしく語りかけている。

そして、レイチェルが最も伝えたかったのは、すべての子どもが生まれながらに持っている「センス・オブ・ワンダー」、つまり「神秘さや不思議さに目を見はる感性」を、いつまでも失わないでほしいという願いだった。そのために必要なことは、「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくともひとり、そばにいる」ことだという。本文中に挿入されているメーン州の海辺、森、植物などをとらえた写真も美しい。『沈黙の春』と同様、読者の魂を揺さぶらずにはおかない1冊である。(清水英孝)

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1. 目を塞ぎ、耳を塞ぐ現代人への警鐘

私は最近、移動中やジムでの筋トレ中、家事中など、基本何をする時もAirPodsを着けて、サブスクで音楽を聴いたり、論文読み上げアプリで論文を聞いていたり、レクチャーの動画を流して復習したりしている。信号の待ち時間やちょっとした空き時間は、すぐにMacBookを開くかiPhoneを開いて、メールチェックと情報収集をしている。

発展し続けなければいけない、動き続けなければならないという思いに囚われて、空白を塗りつぶすように、仕事や研究のための情報や、教養のためといって古典の知識などを目と耳からから流し込んだ。
いつからか、「外界」に対する感度が落ちて、無関心になっていくのに気づいていながら、それが大人になることだと思っていた。

世の中に不満があるわけではないのに、自主的に「耳と目を閉じ」ていた。

攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEXより

しかしこのような生活をしているのは、私だけではないはずだ。街を歩いていて、すれ違う人の半分くらいはワイヤレスイヤホンをしたり、スマホに目を落としている。現代人は大半が、耳と目を塞ぎ、他者や外界、その向こうに広がる自然に対する関心を失い、営みの美しさ、複雑さ、音や匂いに対する感性を失いつつあるように思う。

本書は、その事実を認識させてくれるが、それを責めるのではなく、世界の姿=外の世界に関心を持ち、五感を使ってその世界の神秘や尊さを感じることの素晴らしさを思い出させてくれる。

子どもといっしょに自然を探検するということは、まわりにあるすべてのものに対するあなた自身の感受性にみがきをかけるということです。それは、しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらくこと、つまり、あなたの目、耳、鼻、指先のつかいかたをもう一度学び直すことなのです。
わたしたちの多くは、まわりの世界のほとんどを視覚を通して認識しています。しかし、目にはしていながら、ほんとうには見ていないことも多いのです。
(略)
視覚だけでなく、その他の感覚も発見とよろこびへ通ずる道になることは、においや音がわすれられない思い出として、心にきざみこまれることからもわかります。
(略)
音をきくこともまた、実に優雅な楽しみをもたらしてくれます。

本文

私が、本当は何も見ず、何も聞いていないことを認めるのは辛いが、本書をきっかけにまず常に耳を塞ぐ(いつもAirPods)のをやめてみようと思った。

2. 都会と田舎の文化資本格差は本当か?

最近ソーシャルメディアでは「文化資本格差」論争がよくバズっている。何をもって文化とするのか(美術館や博物館、コンサートなどのイベントなのか、もっと広い生活様式なのか)は議論があるが、曰く、東京出身と田舎出身には文化資本格差が存在し、それは18歳で大学進学を機に上京してから様々な文化に触れてもその差は一生埋まらないという。

一方でカーソンは、子どもの「大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力」をもって自然と相対した経験こそが、大人になったときにやってくる倦怠と幻滅への解毒剤になるため、子どもにとっての経験的財産であるという考え方をしている。

子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー(神秘さや不思議さに目を見はる感性)」を授けてほしいとたのむでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。妖精の力に頼らないで、生まれつき備わっている子どもの「センス・オブ・ワンダー」をいつも新鮮にたもちつづけるためには、わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、すくなくとも一人、そばにいる必要があります。

本文

人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。わたしはそのなかに、永続的で意義深い何かがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、必ずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。

本文

例えば、以下のようなAさんとBさんがいたとしよう。

Aさん
東京出身で親に美術館やオペラによく連れて行ってもらい、人間が作り出す芸術の美しさと深さに心を振るわせ、文化的な習い事(楽器やダンス、プログラミング)もたくさんさせてもらう。家には本がたくさんあり、新しい知識や経験を得る喜びについて、親と共有する日常生活を送る。
夏休みや冬休みなどの長期休みには、田舎に連れて行ってもらい自然に触れ、感動と驚きを得る幼少期。

Bさん
田舎出身で親や兄弟と森の中を探検したり、家の庭の虫や鳥を観たり、声を聴いたり、雪の結晶を虫眼鏡で観察したりして、自然が作り出す世界の美しさと神秘に心を振るわせる。家には虫眼鏡や望遠鏡、スコップがあり、冒険の経験や自然の美しいものについて親と共有する日常生活を送る。
夏休みや冬休みなどの長期休みには、東京や都市部に連れて行ってもらい美術館や博物館を訪れ、感動と驚きを得る幼少期。

どちらがより優れているとは言えない。また、どちらもそれぞれのケースのごく上澄のケースだということも承知している。
しかし私は、Bさんが幼少期に蓄積した「文化資本」がAさんに劣っているとはまったく思わない。
そして、親の側に、金銭と教養を要求するのはAであり、誤解を恐れずに言えば、親の方からすればBの方が簡単なはずである。


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