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最近の記事

野生、社会、そして共生がヘタクソな愛すべき動物たち - 『ナミビアの砂漠』

一瞬、動物園に居るかのような錯覚を受けた。上半身裸の主人公がヨガのポーズのように突っ伏したまま伸びをするシーン。新進気鋭の若手女優の乳房があらわになっているにも関わらず、生物の観察をしている気分だったし、動物的な可愛さが勝った。素晴らしい演技だし、明らかにこの映画に没入し、世界の観察者になっている。素晴らしい映画だと確信した。 気鋭の新人監督と俳優が、奇跡的な邂逅を遂げて作られた『ナミビアの砂漠』。いつも空虚で怒りをもち、自分勝手でガサツ。日本ではあまり描かれなかったタイプ

    • 紀元前から変わらない、哀れなる者たちの悲喜劇 - 『憐れみの3章』

      ギリシャ劇には「コロス」と呼ばれる重要な役割を持つ合唱が存在する。劇の展開の助けになる詩や主人公の心情を、登場人物でも解説者でもない立場で語りかける合唱である。そしてギリシャ劇とは、神へ捧げるための祭りの中で上演される、悲劇・喜劇・サテュロス劇の3つのジャンルを指している。それを証拠に監督はギリシャ人である。 アカデミー賞を4部門も受賞した話題作『哀れなるものたち』から、日本においては1年を待たずに公開された『憐れみの3章』。前評判のとおりすごい映画だった。前作よりも意地悪

      • 世界という箱の中に - 石井岳龍『箱男』と赤瀬川原平『宇宙の罐詰』

        私は基本的にレディメイドには反対の立場を取っているが、ひとつだけ好きな作品がある。それが赤瀬川原平の『宇宙の罐詰』である。カニ缶のラベルを内向きに貼っただけの作品だと言えるが、主体と客体を考えた瞬間にすべて腑に落ちる。あの瞬間が好きだし、それでこそアートだと思っている。まあ哲学の話なので、もちろん話そうじゃないか。箱をかぶったそこのあなたに言っている。 石井岳龍がとうとう安部公房の『箱男』を映像化した。存在表明を捨て、誰でもないという秘匿へと還る。箱とはなにか。まだ箱が実存

        • 止まっている、あるいは動いているフィルム - 『美と殺戮のすべて』『パリ、テキサス』

          普通結びつかない2本の映画を立て続けに見ると、何らか共通点があったりする。今年公開されたナン・ゴールディンを追ったドキュメンタリー『美と殺戮のすべて』、1985年に公開されたヴィム・ヴェンダースの『パリ、テキサス』を立て続けに見て、写真と映像、男のセンチメンタリズムから抜け出したくない様子と女のリアリズムから抜け出せない様子があり、そのふたつとも切なく美しい。その観点から散文を書いてみる。 孤独から抜け出したい、そして愛されたかった女 誰しも何かに依存して生きている。1人

        • 野生、社会、そして共生がヘタクソな愛すべき動物たち - 『ナミビアの砂漠』

        • 紀元前から変わらない、哀れなる者たちの悲喜劇 - 『憐れみの3章』

        • 世界という箱の中に - 石井岳龍『箱男』と赤瀬川原平『宇宙の罐詰』

        • 止まっている、あるいは動いているフィルム - 『美と殺戮のすべて』『パリ、テキサス』

          せずには居られない、しても埋まらない。- 『蛇の道』

          復讐とはそういうものだ。すべてを燃やし尽くしても、その果てにあるのは目的の喪失だけ。やることが無くなってしまう。「本当に辛いのは終わらないことでしょう?」 黒沢清が『蛇の道』をセルフリメイクした。舞台はフランスで哀川翔のポジションは柴咲コウになる。冒頭に引用したニーチェの言葉を思い出し、もっと陰惨で残酷で空虚な「誰かの」復讐劇になるのだとゾクゾクした。 しかし。黒沢清が語る恐怖が今回も忍び寄る。身に覚えがあるのだ。誰しも多かれ少なかれ理不尽な目に遭う。そいつが憎くて仕方な

          せずには居られない、しても埋まらない。- 『蛇の道』

          漂白された地続きの現実 - 『関心領域』

          ラストシーンにハッとした。これは劇映画ではない。劇映画だと思い込もうとした自分がいた。すべて実際に起きたこと。そして今もそこに従事する者がいる。関心があるフリをしていた自分がいることが明るみに出てきてしまう。 恐ろしいほど冷酷なカメラワークと地獄のような音響で展開される『関心領域』。誰でも観ることが出来るG判定の映画で、ここまで残酷なことを表現できるとは。もう観たくないが圧倒的に良かった。(もう観たくないという感情さえも弾劾されてしまうような雰囲気があるが) 退屈なホーム

          漂白された地続きの現実 - 『関心領域』

          刹那の意味 - 『14歳の栞』

          刹那とは仏教における時間の単位である。風が吹けば一瞬で過ぎ去ってしまう。一瞬で忘れてしまう。そんなかけがえのない時間を人は青春と呼び、それは刹那という単位になる。 35名分の刹那。それを丁寧に映したのが『14歳の栞』である。全員実名で出ているので、ソフト化や配信ができないらしい。興行としては厳しいだろうが、もう文化庁が運用しても良いだろうと思うほどに、日本にとって重要な作品だと断言できる。 35名分の、認めてほしい。愛したい。愛されたい。好き。嫌い。振り向いてほしい。放っ

          刹那の意味 - 『14歳の栞』

          20年推し続けた、父親と同じ歳のミュージシャン - 菊地成孔と少しだけ大人になった自分のこと

          先日、阪急梅田ホールで行なわれた菊地成孔とぺぺトルメントアスカラール20周年記念公演『香水』に参加してきた。このバンドを機にファンになったから、菊地成孔のファンを始めて20年経ったことになる。20年いろいろあったので、これを機に菊地成孔との出会いを振り返ってみる。まだ「推し」なんて概念も、スマホすらなかった時代の話である。 2005年当時私は高校生で、デザイン科に通い、Thee Michelle Gun Elephantが好きで、ブレザーにジョージコックスのラバーソールを履

          20年推し続けた、父親と同じ歳のミュージシャン - 菊地成孔と少しだけ大人になった自分のこと

          ある日、悪夢を所有してしまったら - Roadsteadと黒沢清『Chime』

          15000円を払って悪夢を所有した。 前回の記事で今年は黒沢清イヤーになるということ、その中でも新しいプラットフォームRoadsteadで展開される『Chime』が気になるということを書いた。4月12日に無事発売となり、先日購入した。 たった45分に3大怖いものを詰め込んだという触れ込みと、ワタシがジャンプスケアが怖いので劇場で観れないということ、観る覚悟ができたとしても劇場公開は夏以降になること、Roadsteadでどのようにレンタルやリセールなどの取引ができるのかが気

          ある日、悪夢を所有してしまったら - Roadsteadと黒沢清『Chime』

          それぞれの道義的呵責で作られた地獄 – 『オッペンハイマー』

          道義的呵責というのは、結果に対してもたらされるものである。つまり事が行われた先にある後悔。もう結果は出ている。変えられない過去なのである。 2024年アカデミー賞を根こそぎ受賞していった『オッペンハイマー』を観た。日本における公開が難しかった本作であるが、確かに日本人としてみた場合は、ゾッとするような描写や怒りを覚えるセリフも登場する。史実だからどうしようもないし、この先も公開されなかったという世界線にならなかったという意味でビターズ・エンドさんはよくやってくれたと思う。ク

          それぞれの道義的呵責で作られた地獄 – 『オッペンハイマー』

          境界線にある半透明の恐怖 - 黒沢清についての覚書

          基本的にホラーが苦手である。音や映像でびっくりさせるジャンプスケアが主な原因なのだけれど、まあとにかく苦手である。 しかし、想像したことのある納得感のある恐怖は何となく分かる。それが構図や美術、ロケ地などがバシッとハマっていて美しいなら、むしろ見たくなってしまう。その監督が黒沢清である。 最初に見たのは『回路』か『アカルイミライ』だったと思う。存在しているかしていないかの境界線のような物体や人間らしきもの。これを正確に捉えて描き出すのが上手い監督だと思った。 『トウキョ

          境界線にある半透明の恐怖 - 黒沢清についての覚書

          芸術というタイムマシン - 『瞳をとじて』

          31年。 ビクトル・エリセは長編を作るのにこの時間をかけた。今の自分には途方もない時間に思える。単純にその間どうやって暮らしていたのかも気になる。しかし、歳を重ねるごとに1年が加速度的に早くなっていることに気づく。彼にとってあっという間だったのだろうか。そう思いながら鑑賞した。 結論から言うとこの時間は必要だったように思う。物語が持つ静謐な余白と記憶について。贅沢な169分だった。歳を取るというのは、それだけ戻れない時間(=ノスタルジア)が増えるということになる。実人生の

          芸術というタイムマシン - 『瞳をとじて』

          歴史は誰かの悲しみで出来ている - 『ラストエンペラー』について

          かつて奈良に住んでいたことがある。徒歩で平城宮跡に行ける距離で、あの広大な草原(としか言いようがなかった。まだ平城遷都祭もなかった頃だ)を、ただ時間をやり過ごすためだけに使っていた。住まわせてくれた祖父母も亡くなり、家は売りに出され、とっくに別の誰かのものになっている。 もう誰も住んでいない、ただの広い空間。ラストエンペラーの最後の紫禁城は、まさにその空虚な空間であった。不自然で、美しく、切ないあの時間が戻ってきたようだった。 大名作なのであらすじを書く必要はないが、とに

          歴史は誰かの悲しみで出来ている - 『ラストエンペラー』について

          この世界の見え方が違う、ということを許容できるのか - 『ボーはおそれている』について

          多様性というある意味では平和、ある意味では心の機械化に関する言葉がある。先のポストで怒りについての話に触れたが、「怒ってはいけない」というやさしい暴力のように感じる。 もちろん生きる権利は誰にでもある。主張する権利も。だけど、差別する感情は差別されて良いことになっている。多様性の中では忌避されるべきものに勝手になっている。差別は良くない。良くないが人間とはそもそも、そういった感情を持っているはずではないのか。 『ボーは恐れている』は、いま最も重要な監督のひとり、アリ・アス

          この世界の見え方が違う、ということを許容できるのか - 『ボーはおそれている』について

          怒りについて - 『ヴェルクマイスター・ハーモニー』とキップ・ハンラハン

          先週末はアップリンク京都に2日続けて居た。映画史的に重要だとされる2作を観るために、2時間半を捧げてきた。(ちなみにもうひとつの映画は『ラストエンペラー』だが、これはまた別の投稿にする) 『ヴェルクマイスター・ハーモニー』を監督したのは、ハンガリーの名監督タル・ベーラである。7時間の叙事詩『サタンタンゴ』の次に撮った作品で、なんと2000年の作品である。全然見えない。もっと遥か昔の作品に見える。 作品について簡単に言ってしまえば、貧しい街と人に襲いかかる暴力(他所からやっ

          怒りについて - 『ヴェルクマイスター・ハーモニー』とキップ・ハンラハン

          公正でいることは難しい – 『哀れなるものたち』のこと

          いちどフェミニストと口論になったことがある。 お互い酔っ払っていたし彼女も覚えていないだろうけど、主に仕事における男女平等の話だったと思う。彼女とはそれっきり会っていないが元気でいるのだろうか。 社会は昭和のシステムで出来ている。それを令和に急激にアップデートすると負荷が生じるから、いまは平成を少しずつ辿っているような感覚だ。それを引き合いに出生率が下がったりするからやっぱりダメだという論調がある。事実自分も未婚だし子供を育てられる自信はない。 『哀れなるものたち』は性善

          公正でいることは難しい – 『哀れなるものたち』のこと