せずには居られない、しても埋まらない。- 『蛇の道』
復讐とはそういうものだ。すべてを燃やし尽くしても、その果てにあるのは目的の喪失だけ。やることが無くなってしまう。「本当に辛いのは終わらないことでしょう?」
黒沢清が『蛇の道』をセルフリメイクした。舞台はフランスで哀川翔のポジションは柴咲コウになる。冒頭に引用したニーチェの言葉を思い出し、もっと陰惨で残酷で空虚な「誰かの」復讐劇になるのだとゾクゾクした。
しかし。黒沢清が語る恐怖が今回も忍び寄る。身に覚えがあるのだ。誰しも多かれ少なかれ理不尽な目に遭う。そいつが憎くて仕方なくなる。その瞬間に地獄は足を攫っていく。因果応報。酷い目に遭わせたクソ野郎には、同じかそれ以上の報いを負わせるべきだ。そう考えるのが自然だろう。考えたことがあるはずだ。身に覚えがあるのだ。
つまり。腹が立つ奴を脳内で殺したことがあるはずだ。滅多刺しにしたのだろうか。電車が迫り来るホームで突き飛ばしたのだろうか。あなたはその行動を正当化しているだろう。その衝動を頭の中で繰り返し実行しオモテではひた隠すのが社会性というもので、一歩間違えないように寝袋に詰め込んで引き摺り、注意しながら人間は生きている。いまスクリーンで繰り広げられている暴力は、かつて自分が誰かにしたかったことだと言えるのだ。
痛快ではあるが空虚である。タイトルに書いたとおり、「せずには居られない。しても埋まらない」。それが復讐だ。実はこれは別の名作映画の予告編で使われたナレーション原稿の一部である。その別の映画の題材と『蛇の道』で描かれるものは同義かもしれないと思った。男と女の話だ。ラストシーンの眼差しは私たちに向けられている。逃れられない業と終わらないかもしれない苦しみのその果てに。
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