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歴史は誰かの悲しみで出来ている - 『ラストエンペラー』について

かつて奈良に住んでいたことがある。徒歩で平城宮跡に行ける距離で、あの広大な草原(としか言いようがなかった。まだ平城遷都祭もなかった頃だ)を、ただ時間をやり過ごすためだけに使っていた。住まわせてくれた祖父母も亡くなり、家は売りに出され、とっくに別の誰かのものになっている。

もう誰も住んでいない、ただの広い空間。ラストエンペラーの最後の紫禁城は、まさにその空虚な空間であった。不自然で、美しく、切ないあの時間が戻ってきたようだった。

大名作なのであらすじを書く必要はないが、とにかく切ない一代記である。隆盛と衰退。栄枯盛衰の理を表す。時代に翻弄され続けた彼の悲しみもあるが、やはり城にいた、あるいは追われてもなお添い続けた側近たちや正妻の幸せを案じた。きっと彼と同じく悲しみを抱えたまま、歴史の証人として消えたはずだ。仕方がなかったのかもしれないが、彼に愛情を教えていたら、こんなことにはならなかったと思う。そこがこの映画の得も言われぬ悲しみにつながるのだろう。有り得たはずの未来。有り得たはずの平凡な幸せ。

そしてあのラストシーンである。安っぽい拡声器の音。ツアーガイドにたった数行のセリフで吐き捨てられるように紹介される最後の皇帝。

「ここは、清朝最後の皇帝溥儀が座っていた場所です。溥儀は08年、2歳で皇帝となり、67年庭師として亡くなりました」

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1364275853

たったこれだけの人生。歴史とはこういうことの繰り返しだ。我々が知る由もない、悲しみで出来ている。


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