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紀元前から変わらない、哀れなる者たちの悲喜劇 - 『憐れみの3章』

ギリシャ劇には「コロス」と呼ばれる重要な役割を持つ合唱が存在する。劇の展開の助けになる詩や主人公の心情を、登場人物でも解説者でもない立場で語りかける合唱である。そしてギリシャ劇とは、神へ捧げるための祭りの中で上演される、悲劇・喜劇・サテュロス劇の3つのジャンルを指している。それを証拠に監督はギリシャ人である。

アカデミー賞を4部門も受賞した話題作『哀れなるものたち』から、日本においては1年を待たずに公開された『憐れみの3章』。前評判のとおりすごい映画だった。前作よりも意地悪く、つまり作家性が高く作られているのだ。恐ろしい不条理空間なのによく考えると心当たりがあったりする物語が3回展開し、幕を閉じる。それらがマジックリアリズムのように同じキャストが違う役を演じている。

人間とは古来、支配と被支配、すなわち相互の依存関係を構築することで、安心感や全能感を発明し、それを資本に変え、文明を発達させてきた。その文明発達も時間が経ち、アメリカや日本はもう成熟期を超え、いまや衰退期に入っている。それでもなお文明や人間の愚かさは哀れなままで、すなわち憐れみの対象なのだ。「意地悪だが誠実である」とアトロクで宇多丸氏が語るように、ヨルゴス・ランティモスはその人間らしい揺るぎない事実としての悲喜劇を、シニカルかつシュールに突きつけてくる。

支配と被支配。その関係性は非常に強力である。1章では一度破綻したかに見えた寵愛を何としてでも取り返すため無理難題を遂行しようとする姿に、2章では死に至るほどの激痛を伴ってでも愛と信仰を証明しようとする姿に、3章ではそれらの信仰と愛をもう一度取り戻そうとして、呆気なく失敗する姿に。支配と被支配は決して反転したりしない。つまり人間は生まれもって「支配する者」と「支配される者」に分類されているのかもしれない。1話目の最後にマーガレット・クアリーが出鱈目に歌う『How Deep is Your Love』。どんなに深く貴方を愛しているかというタイトルにこそ全てが現れている。

そして物語が展開していきそうな瞬間から始まる、あの不協和音のコロス。対訳がないので何と歌っているのかわからないが、どうやらセリフのズタズタに切って繋げているらしい。まさに現代の悪夢に供される古典的なコロスなのだ。

そんな地獄の中で、ただひとり天使の役目がいる。それが【R.M.F】というストーリーテラーである。殺され、飛び、サンドイッチを食べる天使。ギリシャ劇では役者と説明者と合唱という3つの役割がある。彼は役者でもなければ説明もしない。もちろん歌も歌わない。ただ天使的役目としてそこにいるのだ。そしてウロボロスの龍が如く悪夢の最初へ戻っていく。

やはりこれらをひと組みの俳優たちが演じ分けるのが、この映画の特異性である。ギリシャ劇は同じ役者たちが違う役を演じ分ける長時間の演劇である。つまりギリシャ劇と中南米のマジックリアリズムは同じ構造を持ち、それを現代劇に構造として組み込んでいるのだ。褒め言葉だが、まったくもってイカれている。素晴らしい。

展開しそうになった瞬間にデウス・エクス・マキナがやってきて終わるあたりもギリシャ劇を踏襲しているし、非常(非情)に鮮やかかつ切断的に幕を閉じる。これを笑っていいのか分からないというコメントがあったが、大いに笑い飛ばしたい。そしてあとから泣くのだ。人はそれを悲喜劇と呼ぶ。ギリシャであろうと、コロンビアであろうと、アメリカであろうと、日本であろうと、それは普遍的なことだ。

(thumb: UnsplashBereczki Domokosが撮影した写真)

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