四句否定・テトラレンマ
言葉の使い方にはいろいろな問題がある。特に、ナーガールジュナや中観派と呼ばれる仏教徒たちの言葉の使い方は、一般の人には理解しにくいことが多い。その中でも、「四句否定(テトラレンマ)」という概念がある。これは論理学的には意味をなさないが、仏教やインド哲学の本質に関わるもので、これを理解することで言葉の問題の難しさをある程度解明できる。
彼らの言葉の使い方と、数学や物理学のような厳密な論理の世界での言葉の使い方には大きな違いがある。論理の世界では、言葉は厳密に定義され、論理的に展開され、証明される。しかし、日常生活では、非論理的な言葉の使い方が多く、そのために論理を当てはめることは難しい。多くの学者や哲学者は、言葉と対象が一対一で対応していると思い込んでいるが、非論理的な人々は一つの言葉を多義的に、あるいは矛盾して使うことが多い。それでも前後の文脈や表情、態度で意味が伝わる。
日常生活では、非論理的な言葉の使い方がよく伝わる。例えば、映画の名優はほとんど表現しないでわずかな動きで感情を伝えることができる。言葉だけが伝える手段ではなく、文学者や哲学者のように言葉を大切にする人たちは、言葉でしか物事を伝えられないと錯覚しがちだ。そのため、アートやダンスのような言語外の表現を理解するのが難しい。
仏教は基本的に言葉を否定する宗教であり、そのために理解が難しい部分がある。四句否定を理解することで、論理と非論理の中間にある言語の本質に関わる部分が明らかになる。
※竹下雅敏氏によると、霊的な世界では言葉を発するとそのものが現れることがあるという。それはそれとして。
実際、言葉とそれが示すものは全く別もの。言葉はたんなるレッテルや記号、PCデータのファイ名のようなもの。
この問題は、ナーガールジュナの「空」の思想を理解する上で重要な例である。一般的な常識では、石は石であり、テーブルや椅子として使うことはできるが、その本質は変わらないと考える。すなわち、石の本性は固定されており、一時的にテーブルや椅子として利用されるだけである。
対照的に、ナーガールジュナの考え方では、物に本質や固定された性質は存在しない。彼は、石がテーブルとして使われるならば、それはテーブルであり、椅子として使われるならば、それは椅子であると主張する。ナーガールジュナにとって、物の存在はその使われ方や見られ方によって決定され、固定された本質はない。
一般の人々は、石には石の本質があると認識する。すなわち、石は初めから終わりまで石であり、たまたまテーブルや椅子として使われるだけだと考える。しかし、ナーガールジュナはこの本質を否定する。彼にとって、石は単に石と名付けられているだけであり、テーブルや椅子として使用されれば、その瞬間にそれらに変わると考える。これは、物の本質が存在しないという「空」の思想を反映している。
したがって、物に固定された本質があるとする一般的な認識と、ナーガールジュナのように本質がないとする見方では、物の存在や意味についての理解が大きく異なることになる。この例を通じて、ナーガールジュナの「空」の思想が、いかに物の本質や存在についての一般的な考え方と乖離しているかが明らかになる。
ナーガールジュナがいっていることは、
ことば、その意味としての定義に厳密に一致するものはないということである。
四句否定
中観派の論理は、世界のどんなものも本当には存在しないとする。このため、「ある」と言っても「ない」と言っても、どちらも正しいことになる。なぜなら、世界は「空」であり、実体がないからだ。どんな命題も成り立たず、同時にどんな命題も成り立つので、何を言っても正しいことになる。これは一見矛盾しているようだが、形式論理の枠内に収まっている。
言葉の使用と論理の根本的な違いについて
人間の脳は非常に論理的に構成されているが、言葉自体は必ずしも論理的に用いられているわけではない。これは、日常のコミュニケーションにおいてしばしば見受けられる。
たとえばボーアは、量子力学における対立する概念が相補い合うことで一つの世界を形成すると提唱した。これは、彼が易の太極図に共感し、自身の家紋に取り入れたことからも明らかである。太極図は、陽と陰が互いを生み出し、対立しながらも一つの世界を形成するという思想を表している。
また、人間の思考は対立する二つの概念で捉えがちである。例えば、男と女、光と闇、善と悪などである。これらの対立する概念は、調和しながら世界を形成していると考えられる。しかし、論理の世界では異なるアプローチが取られる。論理では、「Aでない」とは、単に「Aではない」ことを意味し、必ずしも「B」を意味するわけではない。論理的には、全体の集合から特定の要素を除外するだけであり、それが別の特定の要素を指すわけではない。
言葉は対立する二つの概念で捉えられるが、論理は全体の集合から特定のものを除外するのみであり、それが別の特定のものを意味するわけではない。これが、言葉と論理の根本的な違いである。この違いを理解することは、言語使用や論理的思考を深める上で重要である。
つまり、四句否定とは、これらの命題のいずれも絶対的な真理ではないとする考え方である。これが中観の真理であり、物事の絶対性を否定することで、真実を相対的に捉えるという哲学的な立場となる。
特に、第四句「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」は、中観派の宗教的真理を示すものであるが、この真理も他の立場と同じ条件下では成立しない。したがって、第四句も特定の条件下では否定されるべき性質を持っている。
中観の真理について考えるとき、それが世間の一般的な論理の範囲で真実であるとは限らないという点が重要だ。これは、仏教者の無執着の精神を示している。『般若経』では、空(すべてのものが本質的に空であること)に執着する人々に対して、空自体もまた空であると理解する必要があることが強調されている。神秘的な直観としての空を、世間的な存在の世界でそのまま受け入れることは危険である。
中観の真理は、世間の一般的な論理では必ずしも真実とは限らない。『般若経』は、空に執着すること自体も空であると理解する必要があると説いている。空を世間的な存在の世界にそのまま適用するのは危険であり、世俗の世界と勝義(真実)の世界を区別し、異なるものと認識する必要がある。すべてのものが空であることを悟った聖者が、再び常識的な世界や一般の論理を受け入れることも四句否定の精神に基づいている。
ナーガールジュナ思想まとめ
❌️縁起=空(本体が無い)=無自性
ナーガールジュナは「縁起」をお互いに依存し合うこととし、これを「空」と呼んでいる。つまり、「縁起」は「空」と同じ意味だと言っている。
空性というのは本体のない存在であって存在の無という意味ではないとしている。しかし、この3つをイコールでつなげて「縁起=空=無自性」とするすなわち、縁起は無自性であるというのは間違いである。
💮縁起=非自性=空
「縁起」とは、自分だけで存在せず、他のものに依存して存在することを意味する。これを「非自性」と言う。つまり、自立していないということ。ものは本体でないということ。
一方、「空」とはものは本体がないことつまり「無自性」を示す。つまり、「縁起」は互いに依存し合って存在することを指し、「空」はその根本にある本体の不存在を意味する。
「いずれをも超えるもの」という難しい表現より、単に「ものは無常」と言ったほうがわかりやすい。本体は仮に集まった形に過ぎず、やがて消えていく。つまり、ものは無常であり、永遠に存続するものはない。それが縁起であり「空」だと言っているに過ぎない。
ゴータマ・ブッダの「中道」は、快楽と苦行の両極端を避けることを意味している。それに対してナーガールジュナは、この概念を広げ、自分なりに解釈した。ナーガールジュナは中道について、「存在と非存在のどちらも超えるもの」と述べているが、これはブッダの言葉を拡大解釈したものだ。
ナーガールジュナの考えは、「生成や変化は、全てが空であることに基づいている」。変化すること自体が無常であり、無常とは変化を意味する。したがって、変化と無常は同じことだ。
ナーガールジュナにとって、無常は空の表れであり、空を否定することは生成や変化が成り立たなくなることを意味する。空を否定することは自性を認めることになり、自性を認めると変化ができなくなる。
結局、ナーガールジュナが言っているのは非常にシンプルなことで、「空を理解することが変化や無常を理解すること」ということだ。
人間は、言葉によらなくても理解できるし、動物は人間のような言葉を介さなくても理解できるし、意思疎通できる。人間と動物の関係も同様である。ナーガールジュナの理解は論理で説明できる世界だけで、論理を超えた霊的世界を認識していない。
まとめ
最高の真実は「空性」である:
現象と本体の区別は虚構である:
日常の言葉は現象の説明に過ぎない:
対立する二つの世界の区別は誤りである:
悟りとは空性を理解すること:
参考文献
仏教の基礎知識シリーズ一覧
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