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中論03:四句否定/大乗仏教【仏教の基礎知識13】


四句否定・テトラレンマ

言葉の使い方にはいろいろな問題がある。特に、ナーガールジュナや中観派と呼ばれる仏教徒たちの言葉の使い方は、一般の人には理解しにくいことが多い。その中でも、「四句否定(テトラレンマ)」という概念がある。これは論理学的には意味をなさないが、仏教やインド哲学の本質に関わるもので、これを理解することで言葉の問題の難しさをある程度解明できる。

彼らの言葉の使い方と、数学や物理学のような厳密な論理の世界での言葉の使い方には大きな違いがある。論理の世界では、言葉は厳密に定義され、論理的に展開され、証明される。しかし、日常生活では、非論理的な言葉の使い方が多く、そのために論理を当てはめることは難しい。多くの学者や哲学者は、言葉と対象が一対一で対応していると思い込んでいるが、非論理的な人々は一つの言葉を多義的に、あるいは矛盾して使うことが多い。それでも前後の文脈や表情、態度で意味が伝わる。

日常生活では、非論理的な言葉の使い方がよく伝わる。例えば、映画の名優はほとんど表現しないでわずかな動きで感情を伝えることができる。言葉だけが伝える手段ではなく、文学者や哲学者のように言葉を大切にする人たちは、言葉でしか物事を伝えられないと錯覚しがちだ。そのため、アートやダンスのような言語外の表現を理解するのが難しい。

仏教は基本的に言葉を否定する宗教であり、そのために理解が難しい部分がある。四句否定を理解することで、論理と非論理の中間にある言語の本質に関わる部分が明らかになる。

中観者のことばの否定
ナーガールジュナは『広破論こうはろん』51-55スートラおよびその注論においてことばの問題を扱っている。ナーガールジュナによれば、壺ということばとその対象である壺そのものとには同一という関係も別異という関係もない。もし同一ならば、壺といったときに、外界に粘土・轆轤・水などの原因がなくても壺が生じてくるであろうし、壺ということばを理解したときに壺が存在することにもなろう。しかし実際にはそういうことはおこらない。しかし、壺ということばと壺という対象がまったく別個なものであれば、壺といわれても壺という対象が言及されないことになるから、それも正しくない。(p85-86)
ことばの本質
われわれはあるものを定義し、名づけるが、そのことばはけっしてその個物に固定しない。ことばは名づけられたものからすぐに分離し、同種類の他のものに向かうからである。
たとえば、ピクニックに行って草原で弁当を食べようとしたときに、そこに台になる石塊があったとする。「これを何にすべきか」と問われたとき、われわれは何とも答えられない。それをテーブルにして弁当を載せるか、腰掛けにして尻を載せるかはわれわれの決断である。しかしその決断としての定義が真であることをだれも主張しえないであろう。この場合、石塊は厳密に定義されてもいないし、全く定義されていないわけでもない。(p88-89)
だから、定義の対象も存在しないし、定義も存在しない。定義と定義の対象とを離れたいかなる事物もまたない。(5・5)
ナーガールジュナがいっていることは、ことば、その意味としての定義に厳密に一致するものはないということである。ことばがそれと一致するものをもつならば、どうしてその同じことばが他のものに適用されるのか。しかしまったく一致しなければ名づけも定義も行なうことができない。ことばとその対象との関係は同一でもなく別異でもない。とすれば、そのような矛盾した性質をもつことばも、対象も本体のない空なものである。

中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

※竹下雅敏氏によると、霊的な世界では言葉を発するとそのものが現れることがあるという。それはそれとして。
実際、言葉とそれが示すものは全く別もの。言葉はたんなるレッテルや記号、PCデータのファイ名のようなもの。
この問題は、ナーガールジュナの「空」の思想を理解する上で重要な例である。一般的な常識では、石は石であり、テーブルや椅子として使うことはできるが、その本質は変わらないと考える。すなわち、石の本性は固定されており、一時的にテーブルや椅子として利用されるだけである。
対照的に、ナーガールジュナの考え方では、物に本質や固定された性質は存在しない。彼は、石がテーブルとして使われるならば、それはテーブルであり、椅子として使われるならば、それは椅子であると主張する。ナーガールジュナにとって、物の存在はその使われ方や見られ方によって決定され、固定された本質はない。
一般の人々は、石には石の本質があると認識する。すなわち、石は初めから終わりまで石であり、たまたまテーブルや椅子として使われるだけだと考える。しかし、ナーガールジュナはこの本質を否定する。彼にとって、石は単に石と名付けられているだけであり、テーブルや椅子として使用されれば、その瞬間にそれらに変わると考える。これは、物の本質が存在しないという「空」の思想を反映している。
したがって、物に固定された本質があるとする一般的な認識と、ナーガールジュナのように本質がないとする見方では、物の存在や意味についての理解が大きく異なることになる。この例を通じて、ナーガールジュナの「空」の思想が、いかに物の本質や存在についての一般的な考え方と乖離しているかが明らかになる。

ナーガールジュナがいっていることは、
ことば、その意味としての定義に厳密に一致するものはないということである。

四句否定

四句否定
「世尊はその死後に、存在するとも、存在しないとも、その両者であるとも、両者でないとも、いうことはできない」(25・17)。
『中論』にはこの形の四句否定ははなはだ多い。有名な詩頌「有でなく、無でなく、有無でなく、両者の否定なるものでもない、四句を越えた真実を中観者は知る」(プラジュニャーカラマティ『入菩提行論注』第9章引用)が示すように、四句否定は中観の真理を表わすものと理解されてきた。しかし、四句否定については論理的にも応用の面からも困難な問題がある。(p92-93)
論理的な問題とは次のようなものである。第一の命題をpとすれば、四句は、p・非p・pかつ非p・非pかつ非非pと書き表わせる。形式論理の立場、いい換えれば、この四句を同一の論議領域に属するものとする立場から見ると、第三句pかつ非pは明らかに矛盾の原理にそむいている。第四句の非非pはpに等しいから、第四句は非pかつpの意味であり、実質的に第三句に等しくなる。当然、これら四句のすべてを否定すると、ということも意味をもたない。したがって四句否定を形式論理の中で理解することは困難である。むしろ、ある論議領域においてなりたっている一つの命題を、それと異なった、より高次な論議領域から否定してゆく過程として、四句否定は弁証法的な性格をもっていると考えなくてはならない。
「すべては真実であり、あるいはまた真実でない、真実でありかつ真実でない、真実でないのでもなく真実でもない。これがブッダの教説である」という詩頌(18・8)に対して、チャンドラキールティは、人々にブッダの全知性を尊敬させるために、すべては真実だと第一句を説き、変化するものは真実でなく、真実であるものは変化しないと教えるために、すべては真実でないと第二句を教え、第三に、ものは凡夫にとっては真実だが、聖者にとっては非実であると第三句を教え、すでに煩悩と誤った見解とからほとんど自由になった人に対して、子を生まない女の子供は白くもなく黒くもないように、すべての現象は真実でもなく真実でなくもないと第四句を教える、という。(p94)

中観派の論理は、世界のどんなものも本当には存在しないとする。このため、「ある」と言っても「ない」と言っても、どちらも正しいことになる。なぜなら、世界は「空」であり、実体がないからだ。どんな命題も成り立たず、同時にどんな命題も成り立つので、何を言っても正しいことになる。これは一見矛盾しているようだが、形式論理の枠内に収まっている。

言葉の使用と論理の根本的な違いについて

人間の脳は非常に論理的に構成されているが、言葉自体は必ずしも論理的に用いられているわけではない。これは、日常のコミュニケーションにおいてしばしば見受けられる。
たとえばボーアは、量子力学における対立する概念が相補い合うことで一つの世界を形成すると提唱した。これは、彼が易の太極図に共感し、自身の家紋に取り入れたことからも明らかである。太極図は、陽と陰が互いを生み出し、対立しながらも一つの世界を形成するという思想を表している。
また、人間の思考は対立する二つの概念で捉えがちである。例えば、男と女、光と闇、善と悪などである。これらの対立する概念は、調和しながら世界を形成していると考えられる。しかし、論理の世界では異なるアプローチが取られる。論理では、「Aでない」とは、単に「Aではない」ことを意味し、必ずしも「B」を意味するわけではない。論理的には、全体の集合から特定の要素を除外するだけであり、それが別の特定の要素を指すわけではない。
言葉は対立する二つの概念で捉えられるが、論理は全体の集合から特定のものを除外するのみであり、それが別の特定のものを意味するわけではない。これが、言葉と論理の根本的な違いである。この違いを理解することは、言語使用や論理的思考を深める上で重要である。

四句否定の意味
「すべてのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であるものは非実である」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」というものをはじめとする多種類の四句は、それぞれの問題に関するさまざまな人々の意見としてある。けれども四句の一々の見解はそれをもつ人の特定の理論的立場、特定の論議領域においてのみなりたつ。いずれの命題も一定の条件の下でのみ肯定されたり否定されたりするのであって、無条件に、絶対的に真であることはできない。このように、四句のいずれをも絶対的なものとしては否定するのが四句否定の意味であり、中観の真理である、ということになる。
「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」という第四句は、最高の真実として中観の宗教的真理を示しているから、その限りにおいては否定されるべきものではない。けれどもその真理は第一句のなりたっている論議領域、あるいは第二、第三句と同一の領域において成立しているわけではない。いい換えれば、第四句も第一ないし第三句のなりたつ諸領域においては否定されるべき性質のものである。(p96-97)
そのように中観の真理も世間の立場、一般的な論理の領域において真であるとはかぎらない、というところに、仏教者の無執着の精神を見ることができる。『般若経』では、空に執着するものに対しては、空をも空ずる必要のあることが強調されている。神秘的直観としての空を世間的な有の世界においてそのまま妥当すると考えることは危険である。そこに一般の理解(世俗)の世界と最高の真実(勝義)の世界とを弁別し、二つの領域を一応異なったものと自覚する必要が生じてくる。すべてのものの空を悟った聖者がいま一度常識的な有の世界、一般の論理の世界を回復する、ということも、上述のような四句否定の精神から出てくるものである。

つまり、四句否定とは、これらの命題のいずれも絶対的な真理ではないとする考え方である。これが中観の真理であり、物事の絶対性を否定することで、真実を相対的に捉えるという哲学的な立場となる。
特に、第四句「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」は、中観派の宗教的真理を示すものであるが、この真理も他の立場と同じ条件下では成立しない。したがって、第四句も特定の条件下では否定されるべき性質を持っている。
中観の真理について考えるとき、それが世間の一般的な論理の範囲で真実であるとは限らないという点が重要だ。これは、仏教者の無執着の精神を示している。『般若経』では、空(すべてのものが本質的に空であること)に執着する人々に対して、空自体もまた空であると理解する必要があることが強調されている。神秘的な直観としての空を、世間的な存在の世界でそのまま受け入れることは危険である。
中観の真理は、世間の一般的な論理では必ずしも真実とは限らない。『般若経』は、空に執着すること自体も空であると理解する必要があると説いている。空を世間的な存在の世界にそのまま適用するのは危険であり、世俗の世界と勝義(真実)の世界を区別し、異なるものと認識する必要がある。すべてのものが空であることを悟った聖者が、再び常識的な世界や一般の論理を受け入れることも四句否定の精神に基づいている。

ナーガールジュナ思想まとめ


空性の真意
依存性(縁起)をわれわれは空性であるというのである。その空性は仮の名づけであり、それは中道と同じことである。依存しないで生じたものなど何もないのであるから、空でないものなど何もない。(24・18-19)
ものが空であるということは、そのものが本体として存在するのではなくて、原因や他のものに依って生じてきているということである。われわれがいう空性とは本体のない存在ということであって、存在の無ではない。空性という表現も、たとえば、車輪や車軸や車体の集まりをかりに車というように、仮の名づけにすぎない。車という実体があると思い込むのが誤りであるように、空という本体があると考えてはいけない。(p101-102)

❌️縁起=空(本体が無い)=無自性

ナーガールジュナは「縁起」をお互いに依存し合うこととし、これを「空」と呼んでいる。つまり、「縁起」は「空」と同じ意味だと言っている。
空性というのは本体のない存在であって存在の無という意味ではないとしている。しかし、この3つをイコールでつなげて「縁起=空=無自性」とするすなわち、縁起は無自性であるというのは間違いである。

💮縁起=非自性=空

「縁起」とは、自分だけで存在せず、他のものに依存して存在することを意味する。これを「非自性」と言う。つまり、自立していないということ。ものは本体でないということ。
一方、「空」とはものは本体がないことつまり「無自性」を示す。つまり、「縁起」は互いに依存し合って存在することを指し、「空」はその根本にある本体の不存在を意味する。

また車ということばでかりに呼ばれるものがないのではないように、空であるといわれるものは存在しない、というわけでもない。そのようにものの本体の存在、その滅としての非存在のいずれをも越えるものであって、それはシャカムニ・ブッダの説いた中道のほんとうの意味である。生成や変化は、ものが空である、ということの上に成りたっているのであるから、空性を否定するもののにはすべての生成や変化は成りたたない。本体というものは作ることのできないものである。もし善が善の本体をもち、悪が悪の本体をもつならば、善をなし、悪をなすということもいえない。だから、空性こそが道徳や宗教を成りたたせるものである。
この空性を会得する人にはすべてのものが会得される。空性を会得しない人にはいかなるものも会得されない。(24・14、『迴諍論』70)

中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

「いずれをも超えるもの」という難しい表現より、単に「ものは無常」と言ったほうがわかりやすい。本体は仮に集まった形に過ぎず、やがて消えていく。つまり、ものは無常であり、永遠に存続するものはない。それが縁起であり「空」だと言っているに過ぎない。

ゴータマ・ブッダの「中道」は、快楽と苦行の両極端を避けることを意味している。それに対してナーガールジュナは、この概念を広げ、自分なりに解釈した。ナーガールジュナは中道について、「存在と非存在のどちらも超えるもの」と述べているが、これはブッダの言葉を拡大解釈したものだ。
ナーガールジュナの考えは、「生成や変化は、全てが空であることに基づいている」。変化すること自体が無常であり、無常とは変化を意味する。したがって、変化と無常は同じことだ。
ナーガールジュナにとって、無常は空の表れであり、空を否定することは生成や変化が成り立たなくなることを意味する。空を否定することは自性を認めることになり、自性を認めると変化ができなくなる。
結局、ナーガールジュナが言っているのは非常にシンプルなことで、「空を理解することが変化や無常を理解すること」ということだ。

二諦ということ
二つの真理(二諦)に依って諸仏の説法は行なわれる。世間一般の理解としての真理(世俗諦)と最高の真実としての真理(勝義諦)である。(24・8)
これら二種の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある基深の実義を知らない。(24・9)
言語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に従わないでは涅槃は悟りえない。(24・10)
ここに一般の理解と訳したものの、本来は、そのパーリ語形sammuttiが意味するように、一般の人々が一致して認めることを意味したのであろう。一般の人々というのは、最高の真実を見ているヨーガ行者以外の人々ということで、ふつうの世間の人々や学者などのこと。したがって、サムムティというのは、世間的・科学的な一般的理解、常識のことである。(p105-106)

一般的には正しいとされている常識や慣行は、実は、真実をおおう誤解にすぎない。直観においてあらわになっていた真の実在は、それが思惟とことばの対象となったとたんに、おおい隠されてしまう。人がものを理解するということは、判断し、ことばによってそれを表現することである。ことばなしには何一つ理解されないが、そのことばと思惟の世界は真実からの失墜にほかならない。こう考えてみれば、一般の理解を真実をおおうものとする解釈は、「ことばの虚構は空性によって滅せられる」といい、真実は「ことばの虚構によって論じられない」といったナーガールジュナの真意を得たものである、ということがわかる。(p107)
アビダルマ仏教者は現象の世界と本体の世界、制約された世界と無制約的な世界、さらに言い換えれば、俗なるものと聖なるものという二つの世界をつねに意識している。ナーガールジュナの見方からすれば、それは、現実の世界のほかにもう一つの、ことばを実体化した世界を重ねていることである。ナーガールジュナはこのことばの世界を虚構であるという。ほんとうにあるものは、人間のことばによる理解以前の、はだかの現実ただ一つである。その現実はことばによって捕らえられないもの、ことばの虚構を否定するものである、という意味で最高の真実である。

中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

人間は、言葉によらなくても理解できるし、動物は人間のような言葉を介さなくても理解できるし、意思疎通できる。人間と動物の関係も同様である。ナーガールジュナの理解は論理で説明できる世界だけで、論理を超えた霊的世界を認識していない。

勝義の意味
しかし、説一切有部もその本体の世界を勝義――最高の真実と呼び、現象の世界を世俗――一般の理解の世界と呼んでいた。ナーガールジュナの二つの世界が説一切有部の二つの世界とはっきりと異なっているのは、最高の真実が空性といわれる点にある。いま私が見ている壺は各瞬間に生滅をくり返すもので、ある時には見られ、ある時には見られなくなるものである。有部は、そのような壺の背後に、壺の本体が永遠に存在するといいう。ナーガールジュナは、しかし、そのような壺の本体とは実体化されたことばであり、虚構にすぎないという。その本体がないということが最高の真実であるというのである。本体という虚構のおおいを取り除かれたとき、現象はそのまま真実の世界である。だから、本体と現象という二つの存在の世界ではなしに、ことばの虚構を離れた一つの真実の世界――空の世界があるだけである。
ことばの世界
もとより、ナーガールジュナもことばそのものを否定してはいない。ことばとは日常的な世界を成りたたせる情報交換の作具である。「明日は雨でしょうか」というとき、われわれは雨の本質やその存在性を問題にしているのではなくて、雨と明日との時間的関係だけを気にしているのである。
しかしそのようなことばの日常的効用を越えて、ことばに対応する本体があり、この現実のほかにことばの意味する本質の世界があると考えること、一般に形而上学的な思弁の世界はすべて虚構である、とナーガールジュナはいうのである。
そういうことばを離れて現実を見よ、とナーガールジュナはいう。その事実の世界だけが存在の世界である。最高の真実である。だから、ナーガールジュナが、ことばと現実と二つの真理を区別せよ、というとき、それは二つの世界を区別しているのではない。(p108-109)
夢幻の世
生滅し、たえず変化するこの世界はあたかも幻のごとく、夢のごとく、かげろうのごとく、また蜃気楼のようなものである、とナーガールジュナはいう(7・34、17・33)。
その幻において、浄と不浄、涅槃と煩悩、解脱と束縛、制約されたものと無制約的なもの、聖なるものと俗なるもの、如来と凡夫というような二つの世界を区別することは誤りである(22・7-9)。
不浄に執着することが頓倒であるならば、浄に執着することも頓倒である。そのような執着も執着されるものもないと知ることによって頓倒そのものもなくなる。空性とはそういうことである。そこで分けられた二つの対立する世界が、本体がない、ということを通して一つになる。それは『般若経』の哲人が見た不二の世界と同じものである。(p112-113)
迷悟一如
如来の本性であるもの、それをこの世間の人々も本性とする。如来は本体なきものであり、この世間の人々も本体なきものである。(22・16)
涅槃には輪廻とのいかなる差別もない。涅槃の(時間的)限界は輪廻の(時間的)限界である。その二つの間にはほんの微細なずれもない。(22・19-20)
迷った世間人と悟った如来とは同じ空性という本性をもっている。この世間と区別され、この世間と離れたところに如来を求めてもむだである、とナーガールジュナはいう。ものの空性を見ることのほかに悟りはないし、その空性とは世間の人々、世間の事物のありのままの姿である。輪廻と涅槃はその領域においても時間においてもけっして区別されない。(p114-115)

中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻/春秋社

まとめ

  1. 最高の真実は「空性」である

    • 物事の本体や本質は存在せず、それがないということが真実である。

  2. 現象と本体の区別は虚構である

    • 壺のような現象は絶えず変化し、その背後に永遠の本体があると考えるのは間違いだ。本体という概念は虚構であり、取り除けば現象そのものが真実になる。

  3. 日常の言葉は現象の説明に過ぎない

    • 言葉は日常生活の情報交換の道具であり、言葉が示す本体を求めるのは無意味だ。

  4. 対立する二つの世界の区別は誤りである

    • 聖なるものと俗なるもの、涅槃と輪廻など、二つの世界を区別するのは間違いであり、全ては空性という真実に統一される。

  5. 悟りとは空性を理解すること

    • 物事の空性を理解することが悟りであり、如来(悟りを得た者)も世間の人々も本質的には同じである。


参考文献


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青樹謙慈(アオキケンヂ)
今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。