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禅/大乗仏教【仏教の基礎知識20】

日本でよく知られている禅宗には二つの主要な宗派がある。その一つである曹洞宗は、座禅を中心とした修行を行うが、もう一方の臨済宗は公案や禅問答を含むため、理解が難しいとされることが多い。これから、「禅の悟り」や「喝」の意味について解説する。

臨済宗

臨済の人物像

臨済義玄は、中国唐代の禅僧であり、臨済宗の開祖。当初は経典を学んでいたが、心の安らぎを得ることができず、禅の道に転じて黄檗希運の門に入る。そこでの厳しい修行を経て、大きな疑問に直面した後、大愚に師事し、その一言で悟りを開く。臨済は悟りを得た後、中国禅宗史の頂点に立ち、特に「喝」という激しい叫び声を使う厳しい指導法で知られるようになる。
その厳格な禅風から「臨済将軍」とも称され、多くの禅僧に影響を与えた。

臨済録

臨済録はいうまでもなく中国の偉大な禅者臨済の一代の言行を記録したものである。中国の禅は菩提達磨(6世紀前半)が梁武帝(在位502-549)の時、直指人心見性成仏の旗印をかかげて南インドから海路はるばる渡来したのに始まる。
さて、その臨済とはどういう人か。曹州南華(山東省西部)に生れ、出家して戒律や経論を学んだが、十分な宗教的安心を得ることができず、禅に改宗して黄檗の門に入った。少年時代孝行の聞こえの高かった臨済は、禅の修行にも純粋に精進し、黄檗の六十棒を喫して大疑に入り、黄檗の指示で大愚の許を訪い、その一言下に大悟した。さらに黄檗の下にあること多年、その印可を受けて後、河北省鎮州城東南の寺に住した。その寺が滹沱河のほとりに臨んでいたので臨済と称し、ついにその寺名が師の通称となった。

一、河北府知事の王常侍が部下の諸役人と共に師に説法を請うた。師は上堂して言った、「きょうはわしの本意ではないが、やむを得ず世間のならわしに従って説法することにした。しかし禅の正統的立場から言えば、禅はまったく一言半句の説くべきものもない。だからお前たちの思案の足掛りも無いのだ。しからしようだけは常侍の強い要請にこたえ、思いきって禅の本領を示すつもりだ。誰か腕に覚えのある者はいないか、もし居れば旗鼓堂堂々と戦を挑んで来い、大衆の前ではっきりと勝負しよう。」
僧「仏法のぎりぎり肝要の処を伺いたい。」師はすかさず「一喝」一喝を浴びせた。僧は礼拝した。師「お前は結構わしの話相手になれるわい。」(p25-26)

僧「老師は一体誰の宗旨を受け、またどなたの法を継がれましたか。」
師「わしは黄檗禅師の処で修行し、三度質問して三度したたか棒で打たれた。」僧はここで擬識した。すかさず師は「かーつ」と一喝し、追打ちの一棒をくらわして言った、「虚空に針を打つような無駄な真似はするな。」
次に座主が問うた、「三乗教や十二分教など仏の教えの一切は、すべて仏性を説き明かすものでではありませんか。」師「お前なぞそんなふうでは実地の修行は少しも出来てはいないな。」
座主「しかし仏陀はまさか人をだますようなことはなさるまい。」
師「お前がいうその仏陀は一体どこにいる!」座主は答えなかった。師「お前は常侍の前でこのわしをやりこめようとする気か。退れ、退れ!ほかの者の質問の妨げになる。」
続けて言った、「今日の集りは人生の重大問題を究明するためである。質問のある者はもう居ないか。居ればさっさと出て来い。だがお前たちが口をちょっとでも開いたならば、もう万里の隔てが出来る。どうしてかと言えば、釈尊も仏法は文字を離れている、因にも属さず縁にも依存しない、と言われているではないか。お前たちがそれを信じきれないためにこうして無用な葛藤をくりかえすのだ。こんな問答はかえって常侍や諸役人を惑わして、その仏性を一層わからないものにするのではないかと恐れる。わしもここらで引込んだ方がよかろう」と。そこで「かーつ」と一喝して言った、「信に徹しきれない者はいつまでたっても埒のあく日はあるまい。聴衆の諸君、長いあいだご苦労さま。」(p27)

「臨済録」朝比奈宗源訳註/タチバナ教養文庫

臨済は、孟子のいう「大丈夫」

自己の本質を理解し、それをしっかりと体得することが大切である。この本質を理解すれば、世の中の偽物に惑わされることはない。自己が本来の自己であることが最も尊いのであり、それ以上に何かを付け加えたり、考えすぎたりしてはいけない。ただ「あるがまま」でいることが良いのだ。
しかし、お前たちは外の世界に何かを求め、それを頼りにしようとしている。それが間違いである。求めるべきものは外にはないのだ。仏を求めようとするが、その仏とはただの名前に過ぎない。その求めるものが何なのか、しっかりと理解しているのか。外の世界に仏を求めてはいけないといいながら、実際には外に仏を求めている。現代のお前たちもまた「法」を求めているが、その法とは一体何であるのか。
法とは「心」である。心は形がないが、この世界に満ち溢れ、生き生きと働いている。しかし、多くの人はこれを信じきることができない。そのため、菩提や涅槃といった概念や言葉にしがみつき、文字や概念の中に仏法を求めようとするが、それは全くの見当違いである。仏法は文字や概念の中にはない。心こそが真実であり、それを見失わないようにしなければならない。

二、ある日、師は河北府へ行った。そこで知事の王常侍が説法を請うた。師が演壇に登ると、麻谷が進み出て問うた、「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが本物の眼ですか。」
師はこの問いを受けて、「千手千眼の観音菩薩の眼は一体どれが本物の眼か、さあ言ってみよ。」すると麻谷は師を掬いて演壇から下し、麻谷が代って坐った。師は麻谷の前に進み、「御機嫌よろしゅうございますか。」麻谷はそこで擬議した。師は麻谷を掬いて座を下し、自分が代って坐った。
すると麻谷は何も言わずにすうっと出て行ってしまった。そこで師も座を下りた。
三、上堂して言った、「この赤肉団上しゃにくだんじょうに一無位の真人がいて、常にお前たちの面門を出たり入ったりしている。まだこの真人を見届けていない者は、さあ看よ! さあ看よ!」と。
その時、ひとりの僧が進み出て問うた、「その無位の真人とは、いったい何者ですか。」師は席を下りて、僧の胸倉をつかまえ、「さあ言え! さあ言え!」と。その僧は擬議した。師は僧を突き放して、「これでは無位の真人も藁かきべら同然ではないか」と言って、そのまま居間に帰った。

「臨済録」朝比奈宗源訳註/タチバナ教養文庫

赤肉団上《しゃにくだんじょう》と乾屎橛かんしけつ

|赤肉団上に一無位の真人=生身の肉体の大丈夫

四、上堂すると、一人の僧が進み出て礼拝した。すかさず師は「かーつ」と一喝した。
僧「老師、その喝はざぐりの一手ですか。」
師「お前は今の喝をどう会得したか。」
僧は「かーつ」と一喝した。
また一人の僧が問うた、「仏法のぎりぎり肝要のところを伺いたい。」
師は一喝した。僧は礼拝した。
師「お前、言ってみよ。今の喝は好喝であるかどうか。」
僧「こそ泥の大失敗。」
師「失敗の原因はどこにあるか。」
僧「二度と同じ手は食いませんぞ。」
すかさず師は一喝した。
一九、定上座が参禅して問うた、「仏法のぎりぎり肝要のところを伺いたい。」師は坐禅の椅子から下り、胸倉をつかまえ平手打ちを食わせて突き放した。定上座が茫然と立っていると、そばの僧が言った、「定上座、なぜ礼拝しないのか。」そう言われて定上座は礼拝しようとした途端、忽然として大悟した。

「臨済録」朝比奈宗源訳註/タチバナ教養文庫

禅の根本思想

禅の思想:基本概念とその意義
禅宗の根本思想は、教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏の四つの原則に基づいている。これらの原則は、禅の精神を形作り、その独自性を際立たせている。本論文では、それぞれの概念を解説し、その意義について考察する。
教外別伝:文字を超えた伝承
禅宗は、仏陀の悟りが以心伝心によって受け継がれ、経典を超えた方法で伝えられてきたと主張する。この伝承は、西天28祖から始まり、中国の六祖慧能に至るまでの系譜に見られる。しかし、特にインドにおける伝法の部分は、歴史的な証拠に乏しく、中国思想の影響を受けて形成された新たな考え方である可能性が高い。この伝承が禅宗の正統性を主張するために創作されたものである可能性も否定できない。
不立文字:言葉を超えた悟り
禅の悟りは、言葉や文字では表現できないものとされる。これは、科学における実験結果が日常の言語では正確に表現できないのと同様に、坐禅によって得られる純粋な経験は、二元的な論理思考を超えているためである。しかし、現代の脳科学の視点から見ると、これまで表現不可能とされてきたものも、言語で解明可能なものとなりつつある。そのため、「不立文字」という概念は、将来的には「可立文字」や「富立文字」といった表現に置き換えられる可能性がある。
直指人心:心に直接触れる体験
禅の悟りは、経典の学習によって得られる知識ではなく、坐禅による直接的な体験から得られるとされる。この体験は、仏法と自己に対する深い問いかけを持つことで初めて到達できるものであり、禅においては知識よりも体験が重視される。
見性成仏:本性を見て仏となる
禅の究極的な目的は、自己の本性(仏性)に目覚め、それによって仏の境地を達成することである。この「見性成仏」という概念は、特に慧能の南宗禅において強調されている。禅宗では、悟りとは心の深い理解と体験を通じて得られるものであり、それによって仏と同じ境地に達することが可能であるとされる。

禅宗の教えは、経典に縛られることなく、直接的な体験を通じて悟りを追求することに重点を置いている。この点で、禅宗は仏教の他の宗派と異なる立場を持ち、深い精神的な探求を促す。これらの基本概念は、禅が他の仏教宗派とは異なる方法で人々の心に働きかける理由を示しており、その意義は現代においてもなお重要である。


神秀じんしゅうはその著書「大乗無生方便門」において「離念は仏の本質である。」と言っている。
問い「どのようなのが仏ですか?」
答え「仏とは心がきれいに澄み切って、有無の意識を離れ、身と心の対立を起こさず常に真如を守ることです。」
問い「どのようなのが真如ですか?」
答え「心が分別の意識を起こさなければ、その心が真如であり、物が分別されなければ、その物が真如である。物が真如であれば、物が解放されます。心と物とが、共に分別を離れれば、もはや実体的なものは何もないの(無一物)であり、それが悟りの大樹(大菩提樹)にほかならない。」

源律師という者が馬祖に尋ねた、「和尚は道を修行するのにてだてを用いますか?」
馬祖「てだてを用いるよ。」
源律師「どういうてだてを用いるのですか?」
馬祖「腹が減ったら飯を食い、疲れたら眠る。」
この問答は「悟ったからと言って聖人として急に特別な生活になるのではない。
仏教を生活に生かして平常心で無事(平和)な生活を送ることが仏道にもかなうのだ」と言っていると思われる。
馬祖の禅は単純で分かり易い。中国人の心情に訴える革新的・画期的な禅であった。馬祖道一は中国禅の黄金期を出現させた。彼の門下は多く多彩で個性的な禅者を輩出し<洪州宗>の教祖となった人物である。六祖慧能に始まる南宗禅の完成者である。馬祖道一こそ中国禅の実質的な確立者と言えるだろう。

唐代の主著宗密(780〜841)は著書『禅源諸詮集都序』で禅を次の五つに分類している。
1. 外道禅
2. 凡夫禅
3. 小乗禅
4. 大乗禅
5. 如来清浄禅(最上乗禅)

外道禅とは天に上ることを願う外道の禅である。インドのヨーガの禅がこれに当たる。凡夫禅とは凡夫が因果を信じて天に上ることを願う禅である。小乗禅とは自分だけの悟りを目的とした小乗仏教徒の禅である。大乗禅とは我法二空(主体と客体の両者が空であること)を悟る禅である。最上乗禅とは「自心が本来清浄で煩悩がなく、無漏智を自ずから具足している。畢竟この心は仏と異なることがないと頓悟すること」である。最上乗禅とは菩提達磨承伝の禅のことである。
大乗仏教は菩薩乗とも言うように、求道者(菩薩)の道である。しかし、大乗仏教では菩薩を経て悟りを開き仏陀になるのは無限時間の求道と輪廻転生が必要とされる。いわゆる「三劫成仏」説である。このため成仏は事実上不可能である。実際、大乗仏教では菩薩を経て悟りを開き仏陀になったと言う話は聞かないのである。これに対し、最上乗(南宗禅)は仏乗(仏への道)である。頓悟した祖師や禅師は大勢いる。大乗仏教のように開悟に無限時間は必要ではない。正師につき坐禅修行すれば頓悟成仏できるからである。
最上乗(南宗禅)では頓悟した後、もはや修行する必要の無い涅槃常寂・不増不滅の境地に至った人は仏と見なしている。この観点から頓悟成仏を説く南宗禅は大乗仏教における宗教革命と言えるのではないだろうか。

禅の公案

臨済宗(禅宗)の修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題は「公案」と呼ばれていて、ほとんどが普通の常識や論理では答えられないような(解答が見つからないような)ものばかりだ。部外者にとってはまさに「禅問答」、わけがわからない問答と言える。例えばこんな調子である。
「両手声あり、その声を聞け。」(両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのかそれを報告せよ。)
江戸期に活躍した、臨済宗中興の祖と称される白隠禅師が修行者の前で問うた、「両手の声」という有名な公案だ。論理的に考えればそもそも片手では音がしないはずなので、まったく解答の糸口がない、初めから答えのない問いかけということになるだろう。だが、公案は論理的な解答を求めることが目的ではない。むしろその外に出ることを目的としている。
時代の求めるツール?
言葉や概念を使って対象を本来不可分な全体から分離して、独立的かつ分析的に考えて問題を解決しようとするのは現代人(近代人)の性のようなものだが、そもそも言葉や概念自体に問題がないのか、全体から分離したこと(=分離した部分意外は無視していること)そのものに問題はないのか。昨今のように、最も疑うべきは「常識」であるような時代には、意外に重要なツールなのではないのか。

隻手の声

これは日本の臨済禅でよく使われる悟りの手法として使う公案のひとつです。答えのない問題をとことん探求することによって、最終的に問題もなければ、答えもないという結論に達することによって問題と答えという二元論を超越する手法です。その公案の中でよく使われるのが、音に関するものです。そして最も有名な公案が「隻手の声」です。
白隠禅師が弟子たちに次のような公案を出した。
「隻手声あり、その声を聞け」すなわち「片手で叩く音を聴きなさい、聴けたら私の処へ来なさい、そのとき、あなたに悟りの方法を教えよう」これが問題です。何十年もこの師匠の下で師事した弟子たちは必死に考えた。
そのとき、この寺で炊事の仕事をしていた10才の少年が、それを聞いて、自分にもその問題の答えを考えさせて欲しいと申し入れた。師匠はすぐに許した。なぜなら、この問題を解けるのはこの少年しかいないことを最初から見抜いていた。
弟子たちは、どんどん落伍していった。「こんな、不可能な問題を出すなんて、この師匠はきっと、気が狂っている、もうこれいじょう、まっぴら御免だ」と。
だが、この少年は真剣にその音を聴こうとした。あるときは、「風の音が聴こえるようになったが、片手の音はまだ聴こえません」と。またあるときは「川が流れる音の変化が聴き判けれるようになったが、まだ片手の音は聴こえません」と。そのたび師匠は、もう少しだ、だがまだだ。と追い返した。とある日突然その少年が来なくなった。師匠は探しに出た。その少年は木の下で座っていた。まるで生まれ変わったように。師匠はすぐに分かった、この少年が悟ったことを。その少年のそばに寄って師匠は、「どうやら、聴こえたようだね、それはどんな音だったかね」 少年は、「はい、聴こえました。それは音のない音でした」これが正解だ。
(参考)
およそ千七百の公案があるが、「碧厳録」「従容録」が主で他に「無門関」「宗門葛藤集」などがあり、公案は筆記試験ではなく口頭試案で、参禅に公案を用いるものを公案禅または看話禅かんなぜんといい、栄西が開祖で白隠が中興の祖と言われている。一方公案を用いないで黙々と座禅のみをおこなって心性を照らし明らかにする黙照禅は今日、最も多く寺を持つ道元が開祖の曹洞禅がある。

http://www.satoshi-nitta.com/short-story/advanced-34.htm

「超州録」に「庭前栢樹ていぜんはくじゅ」という公案がある。三往復の問答からなるが、無門関」第三十七には最初の一往復だけが記載されている。
ある僧が趙州に質問した。
「ダルマ大師が中国にきた目的はなんですか」
「庭のこのてがしわ」
「和尚、物でなんか答えないでください」
「物でなんか答えておらんよ」
「ダルマ大師が中国にきた目的はなんですか」
「庭のこのてがしわ」
いったい趙州の答えはなにを意味するのか。僧の質問に対する答えとして、形式的にいちおう三つの場合が考えられる。
(一)禅を伝えることである。 (二)禅を学ぶことである。 (三)庭のこのてがしわ。
(一)と(二)は言葉の秩序のなかにある。(二)は一見、言葉の秩序に反するようにみえるが、秩序に反するのは歴史的事実であって、言説そのものではない。
それに対し、(三)は言葉の秩序からはみでている。質問を言葉として受けとっていないのである。逆に、(一)と(二)は、史実はともかく、すべての人間にとって了解可能であり、この点において、(一)と(二)は同じ次元に属することがわかる。
(三)のような答えに接すると、その意味を理解することができない。言葉をもつ以前の世界に思いおよばないのである。これはすばらしい公案である。 この言葉に言葉としての働きをみいだそうとすることが、すでにあやまちである。 無門(『無門関』の著者)がすでに警告を発している。「趙州の言葉がなにかを説明していると考えてはならない。言葉の意味に拘泥するものは迷う」と。
***
わたしは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の一節を連想する。
「鶴、どうしてとるんですか」
「鶴ですか、それとも鷲ですか」
「鷲です」。ジョバンニは、どっちでもいいと思ひながら答へました。
「そいつはな、雑作ない。鷲というものは、みんな天の川の砂が凝って、ぼうっとできるもんですからね。そして始終川へ帰りますからね。川原で待ってゐて、鷲がみんな、脚をかういうふうにして降りてくるところを、そいつが地べたへつくかつかないうちに、ぴたっと押へちまふんです。するともう鷲は、かたまって安心して死んぢまひます。あとはもう、わが切ってまさあ、押し葉にするだけです」
「鷲を押し葉にするんですか。標本ですか」
「標本ぢゃありません。みんなべろぢゃありませんか」
「をかしいねえ」。カムパネルラが首をかしげました。(p180-181)
***
不思議な会話である。言葉が噛み合っていない。それでいて魅力にみちた世界をつくっている。しかし、考えてみれば、われわれ凡人も夢のなかではこんなふうな会話をしている。そしておかしいと思わない。おかしいと思うようになるのは、目覚めて反省するときである。そして、夢のなかの感覚より目覚めたときの判断を正しいと考えている。だが、目覚めてから夢に下す判断になんの意味があるだろう。夢の世界は夢の世界で完結しているのである。

「空と無我:仏教の言語観 」定方晟/講談社現代新書

参考文献


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青樹謙慈(アオキケンヂ)
今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。