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留めておく小さなこと

家から歩いてすぐのところに小さな和菓子屋さんがある。屋号から古くからあるお菓子屋さんの暖簾分けと思われる。
きっとこの場所で、長い間ご家族でお商売を営んでこられたのだろう。何代目かは知れないが、今は若夫婦でご自宅の1階を店と厨房にあてている。

散歩帰りに店先で団子を選んでいると、古い馴染み客が自転車で通りがかりながら主人に声をかけていく。
「よっちゃん元気?」
「あ~元気だよ!ありがとうね」
よっちゃんと呼ばれた主人の返事を背中に聞きながら、その自転車の人は止まらずに向こうへ過ぎていく。
成り行きで一緒にその後ろ姿を見送ってから、「ええと。みたらし2本、ごま1本下さい」と伝える。さっきの馴染み声よりも少しあらたまって「はい、3本で360円になります。」と声がかえって来る。
〈慣れた人に出す声色との違いに気が付きましたよ。〉
というのを表情から悟られないようにする。
何となくそんな事に敏感でない客の方が良い気がしたからだ。
私は上げた口角を不器用にキープしたまま、よっちゃんからお団子とお釣りを受け取って、お店を後にした。

***

ここに越してきた頃、息子はまだ三つだった。
引っ越し前から下見で幾度も辺りを歩きまわったけれど、散歩で見る景色と住んで感じる景色とはどことなく雰囲気が違って見える。やはり本気度のようなものだろうか。

抜け道、路地裏。
人の家に干された洗濯物、停めてある車や自転車から、そこに住まう人をひとりよがりに思い描く。
玄関先に手入れされた植木鉢がならぶ家と、ボソボソに枯れた庭木と野性味あふれる雑草が共存しているたくましい裏庭。
落ちた椿の花を縁石にきれいに並べている家は、お年を召したおばあさんの暮らしの様子が見える気がする。
カーテンの色あい、猫のいる気配。

歩きながら眺め、この町に暮らす人や建物、動植物へ心の中で挨拶をむける。恐らく実際会話を交わすことも、顔も名前も覚える事もないご近所さんが大半である。それでも「こういう者が参りました、宜しくお願いします」という気持ちを送っておくと、自分の中の安心が満たされる。

こんな、“まじない”めいた事をなんとなくやってしまうのは、落とした墨汁が紙に滲むみたいに、クッキリした輪郭ではなくて淵からはみだして広がっている部分をじっと見ていたい性格だからなのだと思う。
上手く言えないのがもどかしいけれど、ここで暮らすことを手繰り寄せる私なりのアプローチのようなもの。

私は時間をみつけて息子をバギーに乗せ、犬のリードを握って家の周りを歩いてまわった。
この和菓子屋もそうして歩いて、たどり着いた。

店先のショーケースには、季節で入れ替わる菓子盆の下に定番の商品が並んでいる。お昼時にはお稲荷さんやおにぎり、赤飯なんかも人気のようだ。

みたらし、ごま、よもぎの団子。
豆大福にふっくら虎柄の皮にあんこが包まれているとらまき。地味だけれど桃色の蒲鉾型をした”すあま”は、ここで私の好物になった。

最初に訪れた時、おずおずと挨拶をするような気持ちで買った夫と私の二人分のお菓子は、いつしか息子の分も加わって、ここのみたらしは今や息子のお気に入りになった。

だけど、こんな事を綴ってもそう頻繁に団子を食べる事がないのが実情で、数年経っても私は馴染み客ではないしそこを目指してもいない。
油断していつまでも定休日を覚えないから、ふらっと訪ねて閉じたシャッターの前でぼんやりすることもある。大方は、犬の散歩の通りすがりに目の端に店先をとどめて、今日もやってるなと思うだけである。

食べたくなった時に、お団子や”すあま”を買いに行く美味しい和菓子屋が私の住む町にあるということが、気持ちの上でここで暮らす事の土台の一部となっている。
意識して留めておこうと思う。


穏やかだった昨日や今日が、当たり前のように明日も明後日もめぐってくるのかは、誰も分からない。
そんな思いを巡らせる日々に、私の考えていたのはこんな小さな事。


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