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個性/欠けたもの/創造について

満ち足りていたら、創造などしない。
欠けているからこそ、創造するのである。

欠けたものといえば、人は個性を挙げると思う。例えば「人より身長が低い/高い」「苦手なことがある」「見た目や肌の色が違う」とか。けれど私は、欠けたものとは、もっと生活の本質に宿ると思う。それを深く掘り下げてみたい。

欠けたもの、ひいては創造とは、特徴的な個性ではなく日常に宿る。

人は食べなければ生きていけない。どんなイケメン俳優や美女も、神格化された天才も、完璧超人に見える人も、食べなかったら飢えてしまうし、一睡もしなかったら倒れてしまう。日常とは近くにあるからこそ、その点を見逃してしまい、気づけないことでもある。私にとって完璧な人とは、「なにも食べなくても、寝なくても生きていられる存在」なのだ。周りを見渡して、どんなにすごい人を神さまに見立てたり、雲の上の存在のように感じても、みな同じ人であることを忘れない。お腹がすいたら、欠けた空腹を補うために、人は料理という創造をしてごはんを食べるのだ。でもそれを欠けているとは思わないし、それが人間なのだ。

とはいえ、こんなこと書いてるのも、個性に苦しんだ人間なのだが。それに個性じゃなくて、そこからくる日常のへい害に苦しみを覚えているだけ。個性があるかないか、それがどうなっているか、なんて関係ない。問題なのは、それを苦にして、本来の自分の姿、才能、本当の心を閉ざしてしまうことにある。誰にだって、心を貝のように閉ざした経験だってあるだろう。

これからは、個性を持ちながら、欠けた生活に苦しんで、創造することについて考える。

例えば、ワーグナーさんなんか、あっちこっち行って逃れて、社会生活は破滅的で目も当てられないほどだったけれど、そんな彼だからこそそこから見える世界で創れる音楽がある。

太宰治さんだってそう。人間界では嫌われて、忌避される存在であったかもしれないけれど、普通の暮らしをしている人たちに、彼と同じことが、素晴らしいあれだけの作品が産みだせたかというと、そういうわけではなかった。

それぞれに、その人だからこそ、できることがあるのだ。

「自分にはできないことをしている」という時点で、相手を尊敬するに値するのではないか。そもそも、その人がどんな境遇で、どんな個性と闘って、能力をやしなっているのかなんて、自身で再現できないことなのだから、教わる立場であるし、よく知りもしないで、否定する権利なんて持ち合わせていないのだ。

(--なんだか、人を裁いていいのは、国民ではなくて法律だけ、という言葉を思い出した--)

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