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山の思い出

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山で地震

山で地震

2011年12月14日午後1時1分、小牧市最高峰の天川山に登った。昼食後に記念写真を撮影しようと並んでいたとき、ゴロゴロッと震度4がきた。震源は岐阜県東部だった、幸い被害はなかったようだが、登山中に大地震に遭遇したのは2007年4月15日が最初だった。
この日は絶好の晴れ、近鉄湯ノ山温泉駅から地元の岳友車で朝明渓谷駐車場へ。全員3名の高老年が歩きだす。目的はニ子山 822m。この山は遠くからみると

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百名山病

百名山病

1991年4月、定年退職記念登山を九重山に選び、5人の山仲間と坊ケつるの法華院温泉山荘へ泊まった。このころ九重山の最高峰は大船山だった。翌日はひどい風雨で地元の岳人は誰も登らない。だが私たち同行の中に1人だけ百名山を目指している人がいて
「どうしても九重山最高峰の大船山に登りたい」
と訴える。とうとう根負けし雨具をつけて出発した。だが登るにつれますます風と雨が強まる。大船山頂上手前9合目の段原で登

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皇太子殿下の山

皇太子殿下の山

※この文章は現在の天皇陛下が皇太子殿下であられた際に書いたものである。

紅葉の涸沢ヒュッテに泊まったとき、同室者の間で皇太子浩宮徳仁殿下の登山の話題が出た。
『あの方は北の利尻岳、開聞岳まで百数十回も登山されてる。本物の山好きと思うね』
『本当かなあ。聞くところでは、宮内庁のお付きの方がすべて気配り手配し、ご本人は何もせずに手ぶらで登っているそうだけど…』
『皇室の方が山に登るとなると、地元や関

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ノリウツギ

ノリウツギ

青春前期、あの頃の山好きな若者は誰もが一度は信州の高原に憧れた。
 串田孫一や尾崎喜八が謳い上げる信濃の高原旅情。「山のパンセ」や「たてしなの歌」は表紙がボロボロになるまで読まれたものだ。

 ある年の6月、念願かなって美ヶ原から霧ヶ峰へ3泊4日の山旅に出かけた。来る年も来る年も三重県内の山ばかり登っていたので、いわば初めての遠征登山である。当時は交通事情ふところ具合も悪く、戦後復興の時代をやっと

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伊木山

伊木山

犬山城から木曽川を見ると川向こうに秀麗な里山がある。これが夕暮れ富士と呼ばれる 伊木山173.1m である。この山一帯は各務原市の「伊木の森」として整備され、四季を通じて散策する人々が多い。里山ではあるが古い歴史を持ち、また岩場にはクライマーが張り付いている。大変変化に富んだ魅力ある低山である。
徳川園の蓬左文庫に所蔵されている古文書に、朝岡宇朝という人が記述した「袂草」がある。その中に「伊木山に

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流れの石音

流れの石音

山ではいろんな怪異現象にぶつかる。それは4つぐらいあるだろうか、
①音を出すもの、②光を発するもの、③形が見えるもの、④これらの組み合わせ、など。いまではたいて科学が解明したいる。「神様の火」は気象学でいう球雷の一種だし、「ブロッケンの怪」は、早くからナゾが解けたものだ。

昭和30年5月、シャクナゲの写真をとろうとして愛知川へ1人でいった。
花には少し早かったが、ミツバツツジやアカヤシオなども咲

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御所平

御所平

鈴鹿の仙ケ岳から稜線続きに西南を眺めると、平坦な山頂に緑とススキの穂波がキラめいている。これが御所平。この広がりに憧れて登山者はフキ谷、あるいは御所谷をつめる。
谷を遡行するルートも最近は荒れていて、踏み跡もはっきりせず落石の危険も重なる。
また谷の詰めは繁茂したブッシュ漕ぎとなり、かなり労力を消費する。うんざりする頃にようやく御所平に出る。
御所平は期待どおり、ススキの穂が風に揺れて逆光に美しい

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私の御在所岳

私の御在所岳

私がはじめて御在所岳の山頂に立ったのは、第2次大戦後数年たったある秋だった。
敗戦のショックと慢性的な一億総飢餓の時代。せっかく就職してみたが、満員電車での遠距離通勤と栄養不良で身体をこわし、家で療養する毎日であった。
ある日、窓から北のほうを見ると、緑濃い鈴鹿の山々の中に、ひときわ堂々としたある。青空は果てもなく拡がり、白い雲がほんの少し頂にかかっている。子供のときから山に入って遊んでいたので、

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秘境 有峰

秘境 有峰

北ア薬師岳 2926m へ折立から登りながら振り返ると有峰湖が光る。
いまこの底には本州最奥の秘境、「有峰」の集落が沈む。かってここは生活に疲れた人、ロマンを求める多くの人が憧れ、たどりついたユートピアだった。有峰は周囲を山で囲まれた千m以上の高冷盆地。越中富山から入るには和田川沿いの険阻な道か、飛騨からは峠を越える険しい道しかない。隔絶した土地だった。

明治12年に訪れた最初の外国人は
「13

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大人のハイジ

大人のハイジ

※この記事は、1997年8月初稿のリライトである。

 昭和25年ごろ私は入社した会社の独身寮にいた。仕事に必要なこともあり、外国の放送が受信できる短波ラジオを自作。勤務から帰ると布団にもぐりこみ、ヘッドホンをつけて微弱な電波を探った。そのとき雑音の中から聞こえてきたがスイスの放送。それは日本からいちばん遠い日本語だった。そして本場のヨーデルが聞こえてきた。
「♪♪レール、レール、レルヒャー、レル

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大好きな鳩吹山

大好きな鳩吹山

※この記事は7年前の81歳の時のものである。

 自分が所属していた山岳会で一番人気の鳩吹山。この山を初めて知ったのはもう44年も前の37才ごろだった。住まいに近い継鹿尾山に登ったとき、むこうに美しい緑の山塊がある。地図で調べたら西山、鳩吹山だった。そして秋のある日に鳩吹山~西山、継鹿尾山を縦走してみた。
 当時はこのルートを歩く人は殆どなく営林署が刈り払った防火線をたどった。だが変化のあるコース

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いとしのピッケル

いとしのピッケル

 その昔、ピッケルは非常に高価で山男の魂とも云われ、登山どころか旅行に出るときも、家にいるときも枕元や床の間に飾って眠る。そんな登山者が多かった。国産で仙台の山内東一郎製と札幌の門田製があった。しかし山内は高齢で殆ど製作されず、門田( カドタ) が唯一の製品だった。だが昭和30年代はじめ炭素鋼製でも3500円もする。安サラリーマンではとうてい手が出ない。
 そんな時代にパズルクイズブームが起こっ

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