いとしのピッケル
その昔、ピッケルは非常に高価で山男の魂とも云われ、登山どころか旅行に出るときも、家にいるときも枕元や床の間に飾って眠る。そんな登山者が多かった。国産で仙台の山内東一郎製と札幌の門田製があった。しかし山内は高齢で殆ど製作されず、門田( カドタ) が唯一の製品だった。だが昭和30年代はじめ炭素鋼製でも3500円もする。安サラリーマンではとうてい手が出ない。
そんな時代にパズルクイズブームが起こった。ある週間紙に懸賞パズルが載ると一斉に他紙も続く。堅い記事の雑 誌「岳人」も懸賞パズルを載せた。山に関するヒントと問題が相当に難しかったが、賞金5万円が魅力で山行を止めて図書館へ通った。20問ほどの回答を必死に埋めていったが、最後にさっぱり判らなかったのが
「そこに岩窟ホテルがある」
という問題だった。自分では回答不能だったのだが、回りのワクの回答に絶対自信があったので最後の回答ワク欄に
「寄居」
と書き入れた。その一念が通じたのか正解者5人の中に入り、5万円を分けて1万円の商品券をゲットした。あとで寄居の意味を岳人編集室に聞くと、
「埼玉の寄居という所に百穴とい う古代人の洞窟住居跡がある」
これでは地方在住の人間がわかるはずがない。しかし1万円は有り難い。これでキスリングとラジュウス、そして念願の門田ピッケル( BERGHEIL )を購入できた。これは門田茂氏の作、早速これを持って冬の藤内壁第3ルンゼ、4月に槍ケ岳へ単独登攀などに出かけた。
だが転勤、結婚、子育てと山から遠ざかるようになると、門田ピッケルの出番がなくなる。
手入れもしないし庭の草取りに使う始末。赤錆だらけで物置の隅に放り出したままとなった。やがて子育ても終わったが、気がつけばメタボのボテボテ体型。これじゃダメと登山を再開し、冬の御在所へも門田を持って出かけるようになる。
そんなとき、藤内沢第3ルンゼを登りつめて頂上で休んでいると、
「それは門田ではないでしょうか?」
突然、声をかけられた。驚いて振り向くと、その人のピッケルもまったく同じ型だった。
びっくりしてお互いに見せ合った。その人は
「ある登山用具店から高額で引き取る話がきたが、いまはいくら金を積まれても手放しません」
いわれて自分も
「もう2度と草取りなんかには使用しないよ」
門田にそう言い聞かせ、いっそういとおしくなった。シャフト、ブレードを毛の手袋で撫でたものだった。
私がピッケルを評価する基準、それは用具としても使用に耐えること。優美さと品格と適度なバランスである。
言い変えれば、いかに美術工芸品に近いかということ。ひところ出回った製品でブレードを万力で90度ほどグイッとひねったピッケルがあったが、これなど単なる金物道具であり、とうてい枕元や床の間に飾っておく気になれない。山岳会のシーラカンス会員と自称する現在、気力も体力も衰えてしまい、もうピッケルを振りかざす山行は無理になった。
そんなヒガミからの愚痴かも知れない。