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御所平

鈴鹿の仙ケ岳から稜線続きに西南を眺めると、平坦な山頂に緑とススキの穂波がキラめいている。これが御所平。この広がりに憧れて登山者はフキ谷、あるいは御所谷をつめる。
谷を遡行するルートも最近は荒れていて、踏み跡もはっきりせず落石の危険も重なる。
また谷の詰めは繁茂したブッシュ漕ぎとなり、かなり労力を消費する。うんざりする頃にようやく御所平に出る。
御所平は期待どおり、ススキの穂が風に揺れて逆光に美しい。まさに癒しの場所である。
この御所平の名前は山に似合わないと思い、地元の郷土歴史家に聞いてみると、
「御所、すなはち天皇のおわしますところだ」
という。何でも南北朝時代、南朝の後醍醐天皇は足利尊氏の勢力を逃れ、吉野山中にあったが、北朝方の圧力が強まると、建武10年に吉野を脱出された。そして僅かの人数に守られて、各地を点々とされたのち秋にこの地に着いた。そしてこの平に仮の行宮を建立して住まわれたという。だが考えてみると、当時はいまよりもっと辺鄙な人里離れた山中、オオカミや熊が出る
ところに
「公家や女官、子供老人などが本当に住めたのか…」
「夏はともかく冬は?」
「水や食料の補給は?」
考えるとマユツバに思えてくる。
そこでまた別の人に聞くと
「御所平は宮中とは何の関係もない、ここの山容がゆったりして美しいので
いかにも御所にふわわしいとの意味である。後醍醐天皇や南朝の史実もない」
私もそうだろうと思っていると、こんどは別の人が
「あったのは行宮ではなく、戦の砦だよ」
と云う。


いまから約450年前の天正10年6月、織田信長は明智光秀に本能寺で殺された。
そのころ伊勢国の北畠家に養子できていたのは信長の次男、北畠信雄である。急を聞いてこの山にはせ登り、この平に陣を張って光秀の来襲に備えた。その砦があったからという。
「そのそき兵は勿論、村人も沢山協力した」
と地元の池山の里に伝承が残されている。


北畠信雄は別名を御所殿ともいわれた人。
だがこの話も歴史書にはまったく記録がない。
これもマユツバと思ったのを見透かしたのか、更に追い打ちをかけてくる。
「証拠がある。それはシャクヤクだ」
その御所平山頂に東西90m南北140mの土塁があり、そこにボタンとシャクヤクの群落があるというのだ。シャクヤクは中国が原産国で我が国には平安時代に渡来した。殆どが人工交配のもので、自然のものが山の上にあるはずがない。だからこれは人が土類に植えたものだという。だが茶器や土器などの破片や砦跡でも見つかれば信用できるが…。

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疑問を述べ頭をひねると
「だが鈴鹿の山に限って、ロマンのあるほうを信用する」
と云うのだった。

山の会の山行で御所平への計画は最近ほとんど見かけない。寂しい限りである。

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