愛知厚顔

小学校6年生の時、鈴鹿仙ケ岳に初登頂。その後の人生は山とともにあり。 山中毒のまま生涯を終えるのも悪くないと、そんなことを思うのも、また楽しい米寿の日々。 昭和7年生まれの元山男「愛知厚顔」が綴る思い出の山々と人々。

愛知厚顔

小学校6年生の時、鈴鹿仙ケ岳に初登頂。その後の人生は山とともにあり。 山中毒のまま生涯を終えるのも悪くないと、そんなことを思うのも、また楽しい米寿の日々。 昭和7年生まれの元山男「愛知厚顔」が綴る思い出の山々と人々。

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米寿のブログはじめ

1944年小学校6年生のとき、先生に引率されクラス全員で鈴鹿仙ケ岳に登った。 清冽な渓流は美しく透き通り白い飛沫を飛ばす。呼吸は苦しくハアハアゼイゼイ、汗びっしょりで急な斜面を登りようやく山頂、だがそこで見た壮大な山々の大パノラマ、「よし!、これからも山に登るぞ!」。 大人になり山仲間と国内の山はもとよりスイス、フランスのアルプス、中国嵩山、韓国智異山(ちりさん)、ハンラ山、ニュージーランドアルプス等にも遠征した。 山男には3つのレベルがあると聞いた。 ①:山好き ②

    • 山で地震

      2011年12月14日午後1時1分、小牧市最高峰の天川山に登った。昼食後に記念写真を撮影しようと並んでいたとき、ゴロゴロッと震度4がきた。震源は岐阜県東部だった、幸い被害はなかったようだが、登山中に大地震に遭遇したのは2007年4月15日が最初だった。 この日は絶好の晴れ、近鉄湯ノ山温泉駅から地元の岳友車で朝明渓谷駐車場へ。全員3名の高老年が歩きだす。目的はニ子山 822m。この山は遠くからみると双耳峰で登高欲をそそられる。 長年の夢を果たす日だ。空気は肌寒く心地良い。ハト峰

      • 百名山病

        1991年4月、定年退職記念登山を九重山に選び、5人の山仲間と坊ケつるの法華院温泉山荘へ泊まった。このころ九重山の最高峰は大船山だった。翌日はひどい風雨で地元の岳人は誰も登らない。だが私たち同行の中に1人だけ百名山を目指している人がいて 「どうしても九重山最高峰の大船山に登りたい」 と訴える。とうとう根負けし雨具をつけて出発した。だが登るにつれますます風と雨が強まる。大船山頂上手前9合目の段原で登頂を断念して引き返した。下山して法華院温泉山荘へ戻ったとき、この人は 「今日は登

        • 皇太子殿下の山

          ※この文章は現在の天皇陛下が皇太子殿下であられた際に書いたものである。 紅葉の涸沢ヒュッテに泊まったとき、同室者の間で皇太子浩宮徳仁殿下の登山の話題が出た。 『あの方は北の利尻岳、開聞岳まで百数十回も登山されてる。本物の山好きと思うね』 『本当かなあ。聞くところでは、宮内庁のお付きの方がすべて気配り手配し、ご本人は何もせずに手ぶらで登っているそうだけど…』 『皇室の方が山に登るとなると、地元や関係者は大変な騒ぎになるらしい。登山道、指導標の整備や山小屋の改修など、一般登山者

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        • 山の思い出
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        • 思い出の世界の山
          3本
        • 山の歴史語り
          2本

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          私の山靴史

          私の足をずっと守ってきた登山靴。いったいいつからの付き合いか、記憶をたぐってみた。 【ワラゾウリ】 昭和1943年、第二次大戦中で私は小学校5年生。戦争は生活を圧迫し ズック靴が手に入らない。小学校高学年が行軍(ハイキング)の計画がある。 行き先は亀山市から鈴鹿峠まで往復すると30km もある。先生の指導で自分が履くワラゾウリを2足ほど自作した。出来ばえは悪いがそれを履いて出かけた。大人でもバテる距離だ。子供の足では行けるものではない。結局、 ダウンする者が増え、関宿と坂下

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          ノリウツギ

          青春前期、あの頃の山好きな若者は誰もが一度は信州の高原に憧れた。  串田孫一や尾崎喜八が謳い上げる信濃の高原旅情。「山のパンセ」や「たてしなの歌」は表紙がボロボロになるまで読まれたものだ。  ある年の6月、念願かなって美ヶ原から霧ヶ峰へ3泊4日の山旅に出かけた。来る年も来る年も三重県内の山ばかり登っていたので、いわば初めての遠征登山である。当時は交通事情ふところ具合も悪く、戦後復興の時代をやっと抜け出そうとしているとき、いまのヒマラヤ遠征に行くような気持ちの高ぶりだった。

          ノリウツギ

          山ヒルには参った

          ※ヒルの苦手な方はご注意ください!! 鈴鹿の山の雪が溶け山に生気が戻ってくると、待ちかねたように山ヒルも活発に動く。 私の体験では4月下旬から11月上旬まで、気温25度以上で湿度60パーセント以上、風のない蒸し暑い日は、確実に私たち獲物を待っていた。私が若いころは霊仙、御池、藤原岳や入道ケ岳、雲母峰など、石灰岩など古成層の地質に限られた。それも稜線の向こう近江側だけだった。 釈迦ケ岳や御在所岳、鎌ケ岳などの花崗岩の山では安心して歩けた。 ところがだんだんと領域を広げ、昨今

          山ヒルには参った

          二村ピッケル

          二村ピッケルの工房は豊田市にある。 制作者の二村善市氏は1931年3月31日、愛知県西加茂郡小原村(豊田市)に生まれた。 父は指物大工で小学6年までカンナ屑の中で過ごした。第2次大戦中は学徒動員でトヨタ自動車へ。配属先が旋盤の削鑿刃先バイトを作る鍛治工場。ここで初めて鉄と出会った。 戦後1946年、蒲郡の日本刀刀匠の藤原武則氏に入門し4年間修行。その後1950年に開業し現在に至る。 ピッケル制作は1960年、鋼の材質にどれを選ぶか…、多くの人々からアドバイスを受け、3年間の

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          伊木山

          犬山城から木曽川を見ると川向こうに秀麗な里山がある。これが夕暮れ富士と呼ばれる 伊木山173.1m である。この山一帯は各務原市の「伊木の森」として整備され、四季を通じて散策する人々が多い。里山ではあるが古い歴史を持ち、また岩場にはクライマーが張り付いている。大変変化に富んだ魅力ある低山である。 徳川園の蓬左文庫に所蔵されている古文書に、朝岡宇朝という人が記述した「袂草」がある。その中に「伊木山に登る」という一節があり、興味があったのでメモし現代文に翻訳してみた。 内藤源右

          流れの石音

          山ではいろんな怪異現象にぶつかる。それは4つぐらいあるだろうか、 ①音を出すもの、②光を発するもの、③形が見えるもの、④これらの組み合わせ、など。いまではたいて科学が解明したいる。「神様の火」は気象学でいう球雷の一種だし、「ブロッケンの怪」は、早くからナゾが解けたものだ。 昭和30年5月、シャクナゲの写真をとろうとして愛知川へ1人でいった。 花には少し早かったが、ミツバツツジやアカヤシオなども咲いていて、満足した写真がとれた。 その夜は愛知川本流を鉱山跡へ少し上った川原で、

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          御所平

          鈴鹿の仙ケ岳から稜線続きに西南を眺めると、平坦な山頂に緑とススキの穂波がキラめいている。これが御所平。この広がりに憧れて登山者はフキ谷、あるいは御所谷をつめる。 谷を遡行するルートも最近は荒れていて、踏み跡もはっきりせず落石の危険も重なる。 また谷の詰めは繁茂したブッシュ漕ぎとなり、かなり労力を消費する。うんざりする頃にようやく御所平に出る。 御所平は期待どおり、ススキの穂が風に揺れて逆光に美しい。まさに癒しの場所である。 この御所平の名前は山に似合わないと思い、地元の郷土歴

          韓国智異山

          智異山 1915m は韓国第2位の山、半島南部の釜山近くに聳える。 山の会22名が遠征したのは、5月のGWだった。 夕方に大坂南港から船に乗り瀬戸内海を航行する。 さっそく甲板上でビールとワインで乾盃。賑やかにやっていると、隣の西洋人が仲間にしてしてくれと言う。大歓迎だ。ドイツ、オーストリア、スイス人の団体。私「韓国の山に登りに行く」。彼らは「私も國で登山している。愉快愉快、乾杯だ」。A氏「私はクロカンスキーをやる」と言うと、一人が「私は19XX 年のヨーロッパ大会で金メダル

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          ヤマボウシ

          平成5年のことである。 『今年は何年ぶりかの花盛りよ、ぜひ見にきて…!』 朝明渓谷、伊勢谷小屋からこんな電話があった。いつも山行でお世話になってるオーナーのマダムからだ。 花盛りとは、小屋の庭にあるヤマボウシのこと。この樹は鈴鹿でもあちこちで見かけるが、こんな大木はめったにない。ヤマボウシは和名「山法師」と書く。白い十文字型の4弁の清楚な花は、総包片と呼ばれるもので花ではない。本当の花はその中央の頭状花序にある小さなものである。山法師とは、この白い総包片を僧兵の頭巾に見立て、

          ヤマボウシ

          私の御在所岳

          私がはじめて御在所岳の山頂に立ったのは、第2次大戦後数年たったある秋だった。 敗戦のショックと慢性的な一億総飢餓の時代。せっかく就職してみたが、満員電車での遠距離通勤と栄養不良で身体をこわし、家で療養する毎日であった。 ある日、窓から北のほうを見ると、緑濃い鈴鹿の山々の中に、ひときわ堂々としたある。青空は果てもなく拡がり、白い雲がほんの少し頂にかかっている。子供のときから山に入って遊んでいたので、山の姿は見慣れているはずなのに、その山はついぞ気がつかなかった。 びっくりして隣

          私の御在所岳

          秘境 有峰

          北ア薬師岳 2926m へ折立から登りながら振り返ると有峰湖が光る。 いまこの底には本州最奥の秘境、「有峰」の集落が沈む。かってここは生活に疲れた人、ロマンを求める多くの人が憧れ、たどりついたユートピアだった。有峰は周囲を山で囲まれた千m以上の高冷盆地。越中富山から入るには和田川沿いの険阻な道か、飛騨からは峠を越える険しい道しかない。隔絶した土地だった。 明治12年に訪れた最初の外国人は 「13軒の村人全員が挨拶にやってきた。大人、子供らの誰もが痴呆じみた姿や顔をしていない

          秘境 有峰

          遙かなる北千島の山

          昭和12年ごろ私の父は北千島にある幌筵島(ぱらむしるとう)の無線電信局勤務となり、単身赴任していた。 翌年の夏に母と一緒に父を訪ねた記憶がある。いまはロシア領となっているが、船で島に向かうとき深い霧の中から高い山が突き出ていた。大人たちが「あの山は北海道で一番高い」と、云ったのを母が覚えており、後になって私にそれを教えてくれた。 この時代、千島列島は北海道の一部とされていた。たしかに大雪山旭岳(2291m)より高い。 それがアライト富士(2339m)。この山に初登攀したのが

          遙かなる北千島の山