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最近見た本や映画など

()内にはタイトルから読み取れないハッシュタグの内容を記した。
興味のある話だけさらっと読んでくれると嬉しい。


法律/裁判の不条理・草薙厚子「元少年Aの殺意は消えたのか」村上春樹「アフターダーク」など(絶歌/都市/裁判/壁と卵)


最近、裁判や犯罪にまつわる本を少し読んだ。
まず、イースト・プレス(ここ割と怪しい本も出すが)出版社の「元少年Aの殺意は消えたのか」草薙厚子氏著を読んだ。

酒鬼薔薇聖斗殺人事件を引き起こした少年Aの手記「絶歌」出版を受けて(その反駁として)書かれた著書だが、興味本位のドキュメントでは(読後感としても)決してない。

この「絶歌」の内容は極めて稚拙である。被害者への贖罪意識は感じ得ず、幼児的な自己全能感のみが目に付く。
同時にこの著作を出版した太田出版、斡旋した幻冬舎の責任は重い。

この著書で知ったが、アメリカでは「サムの息子法」という、加害者の出版物による利益享受を禁止する法律がある。日本でも―出版の自由を制限するおそれはあるにせよ―制定すべきと思う。
今は被害者は泣き寝入りするほかない。

別冊宝島(ここも割と怪しい本を出すが)の「「困った」裁判官」。様々な判決の過ちを取り扱った本である。
例えば「被告」と「原告」がすり替わり、何故か被害者が加害者に賠償金を支払う判決―などはまだ笑える類だが、裁判官の無知や思いこみから不適切な判決を下され、人生が狂った人々の証言は悲惨そのものだった。

硬直した組織の病理は、村上春樹氏が追求した(充分とは言えないが)課題でもある。 特に直接的に扱われたものに、2004年の著作「アフターダーク」がある。

村上氏は大長編を書いた後小規模の長編を書くルーティンがあり、知る限りだと「国境の南、太陽の西」(1992)「スプートニクの恋人」(1999)「アフターダーク」(2004)「色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年」(2013)の四作が該当する。
「ねじまき鳥クロニクル」(1994〜1995)、「海辺のカフカ」(2002)、「1Q84」(2009)などが村上王朝の正統後継者とするなら、前述の四作品は庶子に当たるだろう。
いずれも小説的に面白い試みをしており(成功しているかはともかく)、正統後継者の作品より親しみが持てて好きである。

話を戻すと、(個人の感想に過ぎないが)「アフターダーク」は都市の神話化を狙った作品だと思って読んだ。
思えば、素性のわからない人間同士が平然とすれ違う都市とは非常に不気味な場所である。
その都市という土地そのものがこの小説の主人公といっても過言ではない(はず)。

また、「ねじまき(略)」から「神の子どもたちはみな踊る」(2000)で書かれた
「知っているはずの「ここ」が知らない「どこか」になる恐怖」
(地獄のフロイトが首を縦に振っている)を鮮明に伝える作品でもある。

と、書いたが抽象的で内容が伝わっていないと思う。申し訳ない、この小説、内容の説明がすごく難しいのだ。
「擬似一三人称的一人称」(……?)という謎の視点から語られる上、複数の物語が緩やかに並列処理され死ぬほど分かりにくい。

で話したかったのは本作の主旋律、昏睡する姉を持つマリと胡散臭い大学生の男高橋の間での裁判を巡るエピソード。
ちょっと長いが引用する。

高橋は「ゼミの課題」で「レポートを書く」ため「霞が関の東京地方裁判所」で「主に刑事事件の裁判を傍聴」する。「暴行傷害とか、放火とか、強盗殺人とか」だ。
初め、高橋は「裁判を高みから眺めてい」た。
「しかし裁判所に通って、関係者の証言を聞き、検事の論告や弁護士の弁論を聞き、本人の陳述を聞いているうちに、どうも自信が持てなくなってきた。(略)二つの世界(筆者注:高橋の平和で穏当な市民社会と犯罪者たちの暴力的な世界)を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側(本文「あっち側」に強調点)がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。(略)」(以上文庫p139〜142より引用)

さらに高橋は「裁判という制度そのものが(略)異様な生き物として映るようにな」る。
「(略)深い海の底に住む巨大なタコ。(略)たくさんの長い足をくねらせて、暗い海の中をどこかに進んでいく。(略)そいつはいろんなかたちをとる。国家というかたちをとるときもあるし、法律というかたちをとるときもある。もっとややこしい、やっかいなかたちをとることもある。切っても切っても、あとから足が生えてくる。そいつを殺すことは誰にもできない。あまりにも強いし、あまりにも深いところに住んでいるから。心臓がどこにあるかだってわからない。(略)そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなすしてしまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう。」
高橋は「男が老夫婦をなたで殺して(略)家に火をつけた(略)」「放火殺人事件」の死刑判決を聞いた後、「世界中の電圧がすっと下降してしまったみたいな感じ」を味わう。
「身体が細かく震え始めて、とまらなくなった。(略)うっすらと涙まで出てきた。」(p142〜144)

二十年後の今読んでも、その日常の危うさと個を押し潰す制度そのものに向けられた氏の視線の鋭さはまるで古びてはいない。

ただ、悪や暴力を深海のタコ―非日常的な暗部―に象徴させるこの視点は、日常に遍満する悪への目配せをやや弱くするかもしれない。
ともすればそれは「あちら側」(非日常)がタコ的悪、「こちら側」(日常)がヒト的善という狭量な勧善懲悪の物語に回収され、アメリカ式に言えば「悪(黒人/黄色人種/イスラーム世界)がこちら側(白人)を乗っ取る!」というヒステリックな怯えに乗っ取られる脆弱性を帯びている。
氏の「壁と卵」の演説に即せば、卵という脆い個人を叩き潰す壁という組織や制度は、しかし同時に身動きの取れない個人の積み重ねで成り立っている視点が抜けていないか。
そこには英雄主義的な、
「個人が手を取り合い硬直した組織や制度を打ち壊せば世界は平和になる」
という現実から乖離した理想で終わる危険があるはずだ。
その硬直した組織や制度を―深海のタコを―地上に連れ出すのも私たちという卵のように脆い人間の両手なのだから。

推理・探偵小説・中村文則「迷宮」「去年の冬、きみと別れ」チェスタトン「木曜日だった男」ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」谷崎潤一郎「私」「途上」「白昼鬼語」(芥川龍之介/地獄変/リドリー・スコット/最後の決闘裁判)

最近推理小説の風が吹いて、あれこれ読んだ。
中村文則「迷宮」は殺人現場に折鶴が散らばっているという怪奇的・耽美的設定が素敵。だが肝心の犯人が少女とは納得できない。
「去年の冬、きみと別れ」はメタフィクション・ミステリー(真相:この本そのものが作中の犯人を絶望させるためのドキュメント)だが、今では縦縞のハンカチを後ろ手に隠して「横縞になりました」と出す手品ほどの新しさもない。

むしろ記憶に残るのは才能のない写真家、木原坂雄大(仮名)が未必の故意で女を燃やして写真を撮るも結局凡作しか残せなかったエピソード。
本作、割と頻繁に芥川の「地獄変」が引用されるが、芥川は美に殉ずる芸術家良秀の賛美に終わるのに対し、中村氏の写真家雄大のケースでは超越的な価値に触れようとして果たし得ない人間の痩せたエゴが剥き出しになる点で、むしろ芥川的である。
そのため、筆者はミステリーとして読むのは諦め、「芥川龍之介「地獄変」リブートfeat.中村文則」として評価している。

チェスタトン「木曜日だった男」南條竹則訳は文学的チキンラーメン、あるいはイギリスの筒井康隆である。即ち一口目が美味さのクライマックス。
無政府主義者たちの集まり(月曜日から日曜日の各曜日ごと計七名)に忍び込んだ秘密警察官サイムのクライム・サスペンス……は最初だけ、途中からそもそも無政府主義者などいなかった(リーダー格の日曜日以外は秘密警察だった!)と押井守にかぶれた大学生の自主制作映画みたいな様相を呈し、最後は(許せないことに)夢オチで終わる。

と書くと誰も読まなくなりそうなので、以下はなけなしの弁護。
本作、江戸川乱歩の少年探偵団を思い出すのだ。燦々と煌めく謎に比べ、明かされる結末は少し味気ない。
だが、「夜の夢こそまこと」ではないか。目覚めた昼が白けているのは、むしろ当然である。

だから構成が雑だの杜撰だの言わず、チェスタトンのホラ話を素直に受け取ると、かなり楽しめる。
それに登場人物の口を借りて出てくる、おそらくチェスタトン自身の警句や主張は一見の余地あり。
特に金持ちが無政府主義者になる(彼らは国に頼らなくても生きていけるから)という下りは、まさに現在の新自由主義による国家破壊の危機の予見だ。

ウィリアム・アイリッシュ「幻の女」黒原敏行訳はその書き出しで知られる。

夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

肝心の内容は、確か殺人の冤罪をかけられた男がアリバイを証明するはずの一夜を愉しんだ女を探すも見つからない(からタイトルが「幻の女」)みたいな話だった。

※性的・暴力的な話を含みます


ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」野谷文昭訳。処女を喪った(望んだかは不明)結果、資産家との結婚話がパーになった女性の兄二人が報復殺人を行う。
イスラーム圏でもよく聞く報復殺人、とかく女性には窮屈な世界である。
私だって一度でも射精したら「キズモノ」(一体何が傷つくのか、男の性幻想?)扱いの社会にいたら気が狂う。

リドリー・スコット監督の「最後の決闘裁判」を思い出した。
女性に幻想を見る騎士にレイプされ、夫には勝手に決闘裁判を始められ(敗北した場合彼女は裸で燃やされる)、ずっと男たちの性幻想に心身を損なわれ続ける女性の映画。
「なぜレイプされたとき抵抗しなかった」と夫に恫喝されるシーンは悲惨だ。
現代日本でも、「笑顔を向けられた」「世間話をした」が何故か(本当に何故か)「俺のことが好きなんだな!」に飛躍する謎の思考回路を持った男性は後を絶たないと聞く。
この映画の唯一の救いは男二人が死ぬことである。

マルケスの話に戻ると、兄弟は別に婚約相手を殺したくない。殺したくないが、共同体の論理(日本なら「世間様」)が許さない。
それで兄弟は頑張る。街中に話を広め、どうにか相手に逃げてもらおうとする。でも結局無理だった。

しかし推理小説では全然ない。犯人も被害者(どうも本当は別にいるようだが作中では分からない)もバレバレである。

谷崎潤一郎「私」は叙述トリックもので、語り手がそのまま犯人である。
しかし種が割れても文章に艶があって苦しくなく読める。

「途上」もだいたい同じ話。
今こそ手塚治虫の漫画みたいに使い古されたプロット(重要参考人の夫が犯人)だが当時は新しかったんじゃないか。

「白昼鬼語」は百ページ近い中編推理小説で、前半は文句抜きに面白い。
谷崎はポーの「黄金虫」の―アルファベットを別の記号に置き換える―暗号をオマージュし、さらに殺人現場を示唆する第二の暗号を園村と「私」(日本版ホームズとワトソン)が解読する。

仏陀の死する夜、
デイアナの死する時、
ネプチューンの北に一片のうろこあり、
彼処かしこに於いて其れは我れ我れの手に依って行はざるべからず。

p341.

順番に 
「仏滅」
「月が没する時刻」(ダイアナ別名アルテミス・月の女神)
「海或ひは水に縁のある場所」(ネプチューン別名ポセイドン・海王星の意味もある)の北に「鱗形の△マーク」
「殺人の確約」を意味する。
二人は殺人現場を見事に捉えるが、ホームズ担当の園村は殺人鬼の纓子にベタ惚れしてしまう。

ということで、後半はいつもの谷崎。毒婦とマゾヒストの幸せな恋愛模様になってしまうが、それはそれでいい。
しかし最後、全てが狂言(纓子は普通のお嬢さんだった)だと明かされてしまうのは白ける。夢は夢だから美しいじゃないか。

恐ろしい薬だから綺麗なんだわ。悪魔は神様と同じやうに美しいッて云ふぢやないの。

p362.

ついでに中絶した娯楽小説「乱菊物語」を読もうとしたけど、文章に艶がなくて諦めた。
谷崎潤一郎は結構中絶作品が多く、知る限り「聞書抄」(豊臣秀次を扱った歴史小説)「鴨東奇譚」(モデル問題で絶版)、「残虐記」(推理小説なのに!)などが該当する。

愛おしきサメ映画とリュック・ベッソンの犯した過ちとふしだらなトム・クルーズ

映画は人に読ませるに足ることが書けないから自重していたが、書く。

最近はサメ映画を見ていた。
「ディープ・ブルー」は―研究所でアルツハイマーの特効薬をつくるため―DNAを改竄されたサメが人を襲う。

「なぜサメが都合よく人を襲うのか」というサメ映画最大のアンタッチャブルにきちんと理由付けがされているのがいい。
なお本作のコックは非常にいいキャラで、例えばサメに追われて研究所内のキッチンのオーブンに隠れるときに「ダニエル書」(聖書続編)を引用する。
これはライオンの穴に放りこまれるも主の御力によって傷を負わない預言者ダニエルの物語だが、それをオーブンに閉じこもる彼の身に重ねているのだ。
まさか筆者もサメ映画で「ダニエル書」が出てくるとは思わなかった。

「パニック・マーケット」は発想の勝利。

突如訪れた洪水により出口の見失われたスーパーマーケットにサメが迷い込む。
スーパー/生活空間(ケ)にサメが迷い込むことで水没/祝祭空間(ハレ)が訪れるプロセスには素晴らしいカタルシスがある反面、本作には致命的な弱点がある。
予算がないのだ。
そのため話の大部分が同じ空間内で進められ(スーパーはほとんど水没しておりまた水中にサメがいるので理屈づけはあるのだが)、どうにも見飽きる。
しかし小型犬が可愛かった。

「サメデター」は演劇科の学生たちによる実験劇と「ダーウィンが来た」を思わせる南国の海の美しいリラックス映像が交互に流れているうちに終わった。

途中サメが泳いでいるシーンが数分あったがあれが人食いザメだったのかな。

「シャークネード」は巨大台風に乗って街を襲うサメと闘う勇敢な戦士たちの物語。

ハリウッド映画の十八番「緊張と緩和」(銃撃戦の後はキスシーン)の原則が守られており、屈辱的なことに最後の数十分は画面に見入ってしまったほどシナリオがいい(そこまでは大分ダレる)。
ただし吹き替え版の音声は英会話講座の和訳並みで常に気が抜ける。
個人的には車の天井を食い破るサメのガッツが気に入っている。そのまま肺呼吸を覚えてほしい。

だが「シャークネード エクストリーム・ミッション」は退屈だった。

サメ映画の美しさとは真剣に作ったにもかかわらずB級になるその忌まわしくも切実なジレンマとの切り結びのもたらす固有の緊張感に由来し、本作のサメを宇宙空間に平気で呼び込む無礼講の白けた笑いとは本来無縁であるはず。
ただしジェットコースターのレールにサメが乱入する場面は良かった。
大きな悲劇はときに滑稽な見かけを取るものだ、その意味でも、サメとは人の奥底に眠る戦争と暴力(人の滑稽さの最たるもの!)のメタファーなのかもしれない。

リュック・ベッソン監督作品を見た理由は押井守氏が「フランス人の作ったハリウッド映画」と言っていたためだが、氏はこうも言っていた。
「画面の切り替えが頻繁すぎて記憶に残るショットがない」

「インターセクション」は(実質)二幕構成で、前半は不運な事故からサハラ砂漠に集った因縁のある(不倫関係など)五人の男女の殺伐とした掛け合いが、後半は彼らが三人と二人に別れた後、それぞれの因縁の解決(即ち報復としての殺人)がそれぞれ語られる。
でも退屈。


 今思うと、前半と後半の構成に有機的なつながりがないのが退屈なのだ。
本当の意味でドラマが始まるのは後半のみ、前半は観客に「何か起きるかもしれない」という期待感のみ持たせて引き伸ばす、いささか空虚な造りになっている。
例えばタランティーノのギャングたちの犯人探し「レザボア・ドッグス」や三つの物語の混ざる「パルプ・フィクション」だって空虚と言えば空虚だが、製作側に自己批評があるから見ていられる。

本作はその自覚がないだけ、見終えた後徒労感が残る。


「ロックアウト」は囚人たちに占拠された宇宙監獄から大統領の娘を救い出す一人の男の宇宙冒険活劇だが、とかく説明しすぎである。

細かく切り替わるカットは確かに途中までは(情報量の多さから)楽しいが、次第に疲れてくる。
映画は企業戦士のパワポの企画説明ではないのだ、観客が想像する自由をくれ。 
正味一番楽しいのは北斗の拳ばりに「ヒャッハー!」と言いそうな囚人たちが宇宙監獄をぶち壊す冒頭部。

「バトル・ロワイアル」も見た。学生同士が互いに殺し合う扇情的な映画だったが、ビートたけしだけは良かった。
「この人なにするかわかんない」感じの怖さがある。

「バリー・シール/アメリカをはめた男」「ナイト&デイ」と合わせて、トム・クルーズを見るために見た。

「バリー・シール」では麻薬や武器を南米に送ることで利益を得る飛行機乗り、「ナイト&デイ」ではキャメロン・ディアスを守る凄腕のエージェントを演じていた。
今ひとつ信用の置けない男を演じるトム・クルーズは非常に魅力的。 
一度彼にひどい目に遭わされてみたい。

しかしトム・クルーズ主演でも「ザ・マミー/呪われた砂漠の王女」は散々な出来だった。

愛すべき凡作「ハムナプトラ」同様異国を冒険する活劇だが、物語を進行させるマクガフィン(「ナイト&デイ」なら小型の永久エネルギー機関)が多すぎ、結果として話が分裂していた。
マクガフィンは物語の進行のため利用するもの、それに振り回されては型無しである。


もし筆者なら、タイトルにもある「呪われた砂漠の王女」をファム・ファタール、白人の女性をその対局に置いて、この二代ヒロインの間でトム・クルーズが引き裂かれる展開にする。
私のなかでトム・クルーズは女の内面を理解できないから女に愛される奇特な才を持った男であるため、なるたけ色んな女性と絡ませてみたくなるのだ。

なぜBUMP OF CHICKENの楽曲は最近今ひとつなのかについてのそれなりに長くしかし不完全な考察

BUMP OF CHICKENは人気バンドであり、大抵の人は一度は何かしらの曲を聞いたことがあると思う。
筆者は朝ドラで「なないろ」を聞いて、その清涼感のある曲調が気に入っていた。

それでつい前に音楽番組に出ていたので、そこで初めて歌詞を見たが、そのメロディーの魅力に比べ(歯に衣を着せないで言えば)歌詞はスカスカというか、正直何を歌っているのか分からなかった。
それで昔の曲に遡ったところ「天体観測」や「ハルジオン」、「オンリーロンリーグローリー」、「HAPPY」などは何を歌っているのか分かるし、固有の説得力(小説なら独自の文体)があるように見受けられた一方で、「ray」や「Hello,world!」、「Aurora」などは、聞き終えた瞬間に歌詞を忘れてしまう感があった。
個人の感想だし、筆者の音楽の知識はドレミの歌程度であるが、少なくとも歌詞だけ取り出せば最低限の違いは分かると思い、比べて聞き、以下、近年の歌詞の問題点を考察してみた。

人生訓化する呼びかけ
まず、最近の曲は呼びかける歌詞が多い。
「さあ目を開けて/君は強い人」(「hello,world!」)

「おはよう/ぼくは昨日からやってきたよ」(「なないろ」)

「お日様がない時は/クレヨンで創り出したでしょう」(「aurora」)など。

「そしてその身を/どうするんだ」(「オンリーロンリーグローリー」)
「「どうせいつか終わる旅を/僕と一緒に歌おう」(「HAPPY」)
など、他者に呼びかける歌詞は昔からあるが、かつてあった緊張感は現在、失われている。
理由としては、呼びかける側と呼びかけられる側の距離の過度な近さが挙げられる。
さながら友人が気の置けない友人を励ますような歌詞は、なるほど、確かに耳心地はいいが、聞き終えたとき引っかかるものもない。
言い方は悪いがかつての小室哲哉氏の歌詞同様、これらの歌は「キャッチーなメロディで包んだ人生訓」の域を脱していないように聞こえるのだ。

伝統的だが悪くはない価値観
「塞いだ耳で聴いた/虹のようなメロディー/砕けない思いが内側で歌う」(「hello,world!」)
「手探りで今日を歩く今日の僕が/あの日見た虹を探すこの道を/疑ってしまうときは教えるよ/あの日見た空の色」(「なないろ」)
「ああなぜどうしてと繰り返して/それでも続けてきただろう」(「aurora」)
など、特に近年の歌詞は迷いや疑いを【マイナスの価値】として定義づけつつ、現に迷いや疑いに囚われた人間を励ます方向性の歌詞が多く見られる。
一方で、【プラスの価値】は個人が努力によって夢や願いを叶えることに託されている。

こうした価値観がやや道徳的な退屈さを孕むことは否めない。
けれどこれはJPOPの持つ伝統的な価値観だし、それを必要とする人もまたいるだろう、そう否定はできない。 

足を引っ張る呼びかけ
しかしここで足を引っ張るのが前述の、過度に距離の近い呼びかけの効果である。
その呼びかけには、ある種の人を柔らかく排除する側面がある。
例えば「aurora」の「お日さまがない時は/クレヨンで創り出したでしょう」という歌詞を聞いて、筆者はまず反感を持つ。
いわば勝手に自身の内面に踏み込まれ、物知り顔をされたような―質の悪い人生相談の回答を読まされた気分である。
呼びかけとはある意味暴力性を帯びた行為であり、その自覚を穏やかに締め出す歌詞にはいささかの閉鎖性がつきまとう。

多義的だが不明瞭な暗喩
第一に、この歌詞は一体何を言おうとするのか分かるようで分からない。
ひとまず暗喩で、「お日さまがない」は曇りや夜―ひいては夢を追う人の逆境をイメージするのだと推測される。
しかしそれに続く「クレヨンで創り出した」とはどういうことか。
私は皮肉家を演じているつもりはない。本当に意味がわからないのだ。

そう、最近の彼らの曲の歌詞は、私の読解力に致命的な問題があるのでなければ意味が今ひとつ分からない。例えば、
「パレードは続く/心だけが世界/パレードは続く/僕はここにいるよ」(「パレード」)
の「パレード」は一体何を意味するのか。 「心だけが世界」も、意味ありげなフレーズだが結局具体的な中身は不明瞭である。

「落ちた涙の家を見つけたら/宇宙ごと抱きしめて眠れるんだ」(「月虹」)も、前半はいいにせよ、「宇宙ごと抱きしめて眠れる」は意味がわからない―そもそも多くの人間は宇宙と自分の内面を繋げて生きていないだろう(宮沢賢治じゃあるまい)し、詩的表現としても精度は低い。

確かに、意図的に曖昧な歌詞とすることで聞き手にとっての意味を多義化させている可能性はあるのだが、結果的には聞き手の解釈次第の不明瞭さが、バンド固有のメッセージ性を損なう弊害が増さるように思う。

星と灯火ばかり出てくる歌詞
また最近の歌詞はやたら宇宙や星座が出てくる。「シリウス」(「シリウス」)やら「カシオペア」(「青の朔日」)やら「透明な彗星」(「ray」)やら、そのうち八十八星座をコンプリートしそうな勢いである。
まあ、別に歌詞など好きに書けばいいが、ちょっと単語の重複が目立ちすぎる。
「弱く燃える灯り」(「パレード」)
「消えない灯火」(「シリウス」)
「その火が視界を照らした」(「青の朔日」)「続く者の灯火に」(「ゼロ」)
「いつか終わる小さな灯火」(「Flare」)。
当然こうした歌詞の重複性は、ますます言葉の意味を希薄化し、平板なイメージの次元に貶めてしまう。
 
まとめ
①過度に距離の近い呼びかけ
②抽象的で意味の不明瞭な歌詞
③過度に重複の目立つ使用単語・リアリティの喪失

この三点が、彼らの近年の曲から固有の説得力や魅力を奪ってしまった原因と筆者は推測する。

追記:「分別奮闘記」の魅力
しかし、かつての歌詞には非常に強い説得性を持つものが(それもメジャー曲ではない側に)ある。
「分別奮闘記」がそうだ。

歌詞では自分の夢をゴミに捨てようとする青年の姿が泥臭くも強かなユーモアを持って描き出される。
特に、諦めて捨てようとしている自分の夢が「小さな袋に入るのか」という問い掛けに、「入るでしょ/それ3000個ぐらい」と自ら突っ込む下りには自然な笑みがこぼれてくる。
近年の仰々しい単語の羅列より、こうした土俗的とも呼べる歌詞に筆者は魅力を覚える。

素人のいい加減な与太話だったが、少しでも楽しんでもらえたら幸いである。
また、本当のファンから見ればトンチンカンなことを言っているかもしれない。間違いがあれば教えてほしい。

悪の神秘化・怪物化に抗って―アドルフ・ヒトラーについて―

最近、ベンジャミン・カーター・ヘット氏の著作「ドイツ人はなぜヒトラーを選んだのか/民主主義が死ぬ日」寺西のぶ子氏訳を読んだ。

ヒトラーや麻原彰晃、巨大な悪を行った人間のルポルタージュには、しばしば彼らを神秘化・怪物化する視点が紛れ込む。
おそらく人間の一番最初の発想なのだろう。
例えば洪水や雷を神や怪物の仕業に帰したように、私たちは大きな悪を「自分たちには想像もつかない存在」として、しばしば捉えがちだ。
それは巨大な悪が日常の微小な歪みや綻びから生じる視点を見失わせ、抵抗不能な神話として文字通り神棚に挙げてしまうことになりかねない。
実際悪を「計り知れない心の闇」のせいにしてしまえば(これは歌人の穂村弘氏の言だ)それ以上考える必要はなくなる。
だがそれは違う。悪も戦争も狂気も、いつも今ここと地続きである。

本作を読んで分かったのは、ヒトラー誕生に数多くの要因があったことだ。
まず、
1.ドイツには「中央党」というカトリックの利益を代表する(日本なら「公明党」か)有力政党があった反面、プロテスタントの利益を代表する政党がなかった。彼らがナチ党を支持する。
2.ベルリンに代表される都市のリベラル層の支持するドイツ人民党に対して農村の保守層は反感を持っており、結果的にナチ党を支持する。
3.ドイツ(に限らず)当時の共産党はソビエト本部の指図に過度に従順であり、国家を―本当に―破壊する側面があった(現代日本でも高齢者に共産党への拒否反応が強い理由でもあるが、日本共産党は現在は武力革命を捨て、議会主義に従っていること、マルクスの理想から離れた官僚主義と手を切っていることは明記しておく)。彼らの存在がドイツの左派が統一して国家危機に立ち向かう事態を困難にさせた。
4.ナショナリズムはドイツのみの特別な現象ではなく、共産主義の脅威を覚えた一次大戦の敗戦国で共通して見られた現象だった。
5.ヒンデンブルク大統領は既得権益層(かつての貴族)に属し、保守的な国家建設を目論み大統領権限を乱用し、ワイマール憲法を踏みにじった。
6.ヒンデンブルク大統領はドイツの敗戦が「背後からの一刺し」―ユダヤ人や共産主義者の謀略によって起きたと信じていた。この偽りの神話は後にナチ党のユダヤ人差別を正当化するきっかけとなる。
7.彼の下で政治家シュライヒャー(ドイツ語で「忍び歩き」を意味する)も謀略を繰り返し、数多くの生活苦に喘ぐ国民に目を向けずにヒンデンブルク同様ナチ党が政界に進出するきっかけを作った。

まとめると、
a.保守的な既得権益層による政治の独占のもたらす腐敗
b.自分たちの利益がリベラル層に蔑ろにされていると不満を持つ貧しい保守層の存在
(しかし実際彼らを貧しくしたのは既得権益を持つ保守層である)
が、結果的にナチ党を呼び込んだ。
言うまでもないが、これは現在の日本の写し鏡である。

三島由紀夫拾遺(レーム事件)

ついでに三島由紀夫の「わが友ヒットラー」も扱っておこう。
三島晩年の戯曲で、レーム事件(ヒトラーがナチ党内部の急進主義者を粛清した事件で個人的には「レーム虐殺」と呼ぶべきと思う)を扱った作だが、正直な話ヒトラーやナチ党に三島がそれほど関心を抱いていたとは思えない。

むしろ本作はレーム事件に乗っかる形で、ヒトラー(現実・老い・生の象徴)がレームと彼の配下の突撃隊(理想・青春・死の象徴)を裏切る悲惨を描いた作と見るべきだろう。
「美しい星」や「午後の曳航」といい、後期の三島はどんどん本来の耽美主義に(しかも現実における不可能性の苦い認識からついに逃げ切れぬまま)戻っていったような気がする。

酸模すかんぼう―秋彦の幼き思ひ出」は昭和十三年(1938)、三島由紀夫十三歳の作品。

あらすじ
刑務所から脱獄した囚人は秋彦という少年との出会いから改悛し、残り一年の刑期に服す。
一年後、釈放された彼は秋彦ら子どもたちと酸模(イタドリ)の花を摘んで遊ぶが、見咎めた母親に追い払われてしまう。
それから「長い年月」が経ち、秋彦はとうに忘れた囚人の「小さい墓標」が描かれ、話は終わる。

既に三島独自の「疎外者」のモチーフが出ているのは注目に値する。また囚人の

私は、今まで、理性で何事も処理出来る人間の中に本当の幸福があると思って居たのです。
私は弱いゝ、女のやうな心の持主でした。
ほんの少しばかり理性が芽ばえても、感情が見る間に浸し切つて了ひます。(略)私は、本当の幸福を、私の、弱い感情のみの性格の中に見出したのです。

p63.

という述懐は三島の作とは思えないほど。

後年三島は自作解題で本作を「実物も見たことのない植物の名を訳知り顔に書き並べて滑稽」と皮肉るが、それは冷淡すぎる評価だろう。
この囚人の告白には後年三島が量産する短編群の乾いた人工性に比べ、確かに生身の、確かに生きた言葉が流れているのだ。
筆者としては実力充分の三島がもう一度この囚人の訴えに―人の弱さを許す言葉に―耳を貸していたらと強く思う。

「軽皇子と衣通姫」は記紀(古事記・日本書紀)をモチーフとする悲恋作品である。
敗戦直後、三島がそれまでのイデア的・神話的作風と現実の折り合いのつかないなかで書いた佳作であり、いわば配置換え直後の役所のような取っ散らばった出来である。
それまで無批判に書かれてきた(軽皇子と衣通姫との)イノセントな恋と死の親和は既に三島を蝕む後年の批評性を帯びており、読んでいる身にも辛い。

三島はルオーの平たいキリストの美しさを、きっと認めなかっただろう。
醜く、打ちひしがれた滑稽なキリストが、しかも救い主であるという不思議な、しかし大きな―物語同様、戦後という人間の醜悪さが大手を振って溢れ返った時代、美しい存在は滑稽さを帯びてしか立ち現れない。
その背理を受け入れるには、三島はあまりに純粋だった。

遠藤周作「沈黙」の通俗性(死海のほとり/おバカさん/長崎/隠れキリシタン)

遠藤周作というのも不思議な作家である、消えるか、消えるかと思うが意外と余命を保っている。
「死海のほとり」「海と毒薬」「侍」がマイ・ベストだが、知名度としては「深い河ディープ・リバー」と「沈黙」の二作がずば抜けているだろう。

タイトルで察せたと思うが、筆者は「沈黙」が嫌いである。
元々遠藤周作は批評家だったこともあって、作中で明白に課題が設定され(「沈黙」なら沈黙する神への疑い)、それが明白に解かれる展開を取りやすいが、逆に言えば読者に問いを与える深さを欠く。

しかし間口の広い作家なのは間違いない。
「沈黙」や「深い河」を読んで宗教・キリスト教について―少しでも―考えたり、興味を持った読者はきっと多いはず。
それは本当に善いことだ。
個人的には歴史小説でキリスト教絡みのコアな人を取り上げるのも面白い。
タイで政権抗争に巻き込まれ殺された山田長政、息子に裏切られた大友宗麟、小西行長などなかなか渋い(褒めてる)チョイスだ。

いい加減に話を戻すと、「沈黙」は主に長崎の隠れキリシタンの姿と、彼らに布教をするポルトガル人司祭ロドリゴの人間的挫折(宗教的勝利)が描かれている。

ロドリゴの苦労は中間管理職のそれである。
片や豊臣秀吉による取り締まりがあり、日本の宣教師やキリシタンには非人道的な拷問が行われ、しばしば「転ぶ」(棄教する)者や殉教者が出ていた。
一方で長崎のキリシタンたちは正しい教えを理解できず(おそらく識字能力もなかったのではないか)仏教の極楽・浄土とキリスト教の天国を混同する。
国家ぐるみの弾圧と、信徒たちの無知。この二つがロドリゴを追い詰めていく。

本作のクライマックスは、やはりロドリゴが棄教の証にイエス・キリストの踏み絵を踏む場面。
神はロドリゴに言う。「踏むがいい」
かくしてロドリゴは棄教し、日本に帰化して「沈黙」はその結末を迎えるが、しかし三つ疑問がある。
一つは、なぜ像を踏むことがそれほどの大事か、ということだ。
筆者はキリスト教について門外漢であるけれど、キリストが踏み絵を踏むだの踏まないだの、形式的なことにこだわるのだろうか。

二つ目は、筆者には仏教とキリスト教が混同されるのが悪いとは思えなかった。
どこでも、外来宗教は既成宗教と融和しながら受容されるものだろう(例えば日本仏教なら詠嘆的な無常観と祖霊信仰)。
それに、自分たちの身近なものを媒介に超越的なものに触れる心のあり方は、人にとって自然だ。
事実、キリスト教圏でも聖者信仰や天使信仰があると聞く。彼らはキリストと人々との中継ぎを担っているのではないか。
厳密には誤った信仰かもしれないけれど、それで信徒の心が安らぐなら、私はいいと思うのだ。
(追記)氏の短編「指」を読んだ。
聖トマ(トマス)(別名・不信のトマ/キリストの蘇りを信じず、聖痕に指を突っ込んだとの逸話がある)の指を祭る教会が扱われ、「あの女たち(筆者注:売春婦)たちの信仰にそんなやくざな迷信じみたものが大事ならば、それを否定する資格が誰にあるだろう」との一文が出てくる。
完全に筆者の確認不足だった。
ただ、やはり「沈黙」におけるキリスト教の土着化に対する認識は、やや表層的と思う。

三つ目は、ロドリゴが聞いた神の「踏みなさい」という声への疑念だ。
ロドリゴはこのとき、神をでっち上げたのではないか。「踏みなさい」と言ったのはキリストでもなんでもない、ロドリゴの自己愛が捏造した、偽物の神だったのではないか。

もちろん、「沈黙」は(ひいては作者の遠藤周作は)そのように読まれることを望んでいないはずだ。
「人の神への裏切りを含め、なお人を愛するのが神である」―こうしたテーゼを示す目的で書かれたと見るのが自然だろう。

しかし、

たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

p325.

と、あっさり神の存在が要約されてしまうのはどうか。

あの神は自分のデッチアゲだったかもしれない、偽の神だったかもしれない。
そうした―恐ろしい―疑いを抱えながら、しかもなお、確かにロドリゴが聞いたのはキリストの声だと示す。

難しいとは思うがそうした疑念を書かないと、どうしても結末がご都合主義に見えてしまう。
繰り返すが、筆者は次作「死海のほとり」がより好きだ。 
史実と聖書の記述の歪みを受け、迷う信仰者の姿がありありと描き出されている。
また遠藤周作の得意とする、過去時制の物語の絡め方も見事だ―ただ「沈黙」同様、人間の弱さや醜さへの応答に通俗的な甘さが残るのも事実だが。

それと、「おバカさん」のユーモアを純文学には持ち込めなかったのも筆者は残念に思う。
ユカイ痛快に笑い転げながら、キリストについて学ぶのもいいと思うのだけど。ダメなのかな。

「歎異抄」(親鸞/唯円/新潮日本古典集成/阿満利麿)

さっと書く。
今、「歎異抄」が人気だ。実際、今でも挑戦的なテーゼが多く並ぶ。
ただ、親鸞の直接の著作ではない(弟子の唯円によるもの)ことには注意する必要がある。
また、阿弥陀仏に対する「報恩感謝」の思想は個人的には親鸞の教えからは逸れると思っている。

また「親鸞会」という団体がよく歎異抄について出版物を出しているが、親鸞の教えとは道を違えた新興宗教団体である。

筆者は、新潮日本古典集成の「歎異抄」をおすすめする。原文だが現代語訳が付記されている。源氏や平家などの物語に比べてずっと読みやすいし、文章量も少ない。
(ただしいきなり上の注釈まで追うと辛い。
最初は原文右横の現代語訳だけ追うといい。)

様々な人が歎異抄について話すが、救いを求める人々に真摯に向き合うのではなく、目先の儲けで書かれたものが多すぎる。
なら原文を読んだほうが近道だ。

ただ、もし浄土教について詳しく知りたい方は(個人的な意見として)親鸞より法然から入ると分かりやすいと思う。
親鸞は法然の教えを体系化し質的に深めた点で特筆すべき著作―「一念多念文意」「唯信鈔文意」など―を有するが、初読だと分かりにくいし(いたずらに難解ではないのだけど)、「教行信証」は本当にお手上げだ。

そのため、たとえば中公バックスの現代語訳で法然の(独特のユーモアと豊かな広がりを合わせて持つ)「一百四十五箇条問答」から「和語灯録」、次いで「選択本願念仏集」と読むのを勧めるが、こちとらズブの素人である。
なので本当は専門家の本を読んでほしいが、私たちとの繋がりを感じにくい、過度に学術的な著書も多い。
筆者としては阿満利麿氏の著作を―法然、親鸞の教えに触れる善き手がかりとして―おすすめしたい。

「歎異抄」についても、氏は上に掲げた本のほかいくつかの著書を持つ。
ただ、叶うなら「歎異抄」以外の、法然、親鸞の著作や解説についても、パラパラと読んでみてほしい。

(蛇足)あちこちで過度に親鸞を神格化する発言をよく見るが、聞きたい、一体親鸞が尊いのか、阿弥陀仏が尊いのか。
親鸞の歴史的なドラマが過度に拡大され、他力の教えから切り離されたまま生き仏のように取り扱われるのは、私は納得できない。
弥陀の本願に頼るほかないその無力さにおいて、親鸞もまた、私たちとなんの変わりもなかった。そのはずではないか。

二つ余談。
一。大岡昇平の「俘虜記」のエピグラフに歎異抄の文句「わがこころのよくてころさぬにはあらず」が引かれている。
人間の自由意志の限界で立ち現れる絶対者の存在は後に「野火」で発展的に解消されることになる。

二。米津玄師氏の「マルゲリータ」―行きずりの男女の刹那的な性欲を食欲と重ねて描いた歌に「満腹なおもて往生を遂ぐ/いわんや腹ペコをや」と歎異抄をパロディ化した文言が出てくる。
ただ、個人的には本来の文より親鸞の教えをよく伝えている気がする。
これから歎異抄もこちらを採ろうか。

嫁のおならは七度に分けて(渡辺信一郎)

渡辺信一郎氏の「江戸のおトイレ」という著作が面白かった。江戸の糞尿屁をテーマにした川柳をひたすら引用し、ひたすら解説するストイックな新潮選書である。
「嫁のおならは七度」というのは江戸時代、姑に嫌味を言われぬよう嫁は便所でおならを七度細切れに分けて出すから。 
また大便を「左ねじり」と呼ぶのも面白かった。確かに人間の糞便は常に左方向に巻かれるが、他の生き物もそうか。
筆者は江戸の低きに流れる文化があまり好きではないが、それはそれ、素晴らしい良書。ぜひ読んでほしい。

透明化される労働者―社会の内側にいる棄民―(ケア/もやい/こども食堂/安倍晋三/貧困/生活保護/セルフネグレクト)

一.前書き

労働と聞くと、筆者は道路やビルなどの建設業、次にバスや電車の運転手、その次にオフィスのサラリーマンなどの仕事が思い浮かぶ。
一方で家事と聞くと、やはりキッチンに立つエプロン姿の母親のイメージが思い浮かぶ。
これからの時代は変わっていくとは思うが、今のところ私と同じイメージを抱く方もまだ多いのではないか。

少し話は飛んで、ボーヴォワールには
「女性の労働とはマイナスをゼロにすることである」という有名な文言がある。
私はボーヴォワールの深遠な思想もフェミニズムの苦闘も解説できるほど詳しくないが、要約すると、
「一般的な労働が目に見える成果物を生み出すものと定義づけられたとき、そこから漏れてしまう労働行為が存在する」
という話だと理解している(間違っていたら申し訳ない)。

例えば、前述したエプロン姿の母親である。彼女は家事に従事しているが、これは「労働行為」だろうか、それとも愛すべき「家庭の営み」だろうか。 
その答えは各自の「労働」の定義次第で幾通りにも分かれるはずだが、仮に、現在の日本の主流の価値観を当てはめれば、家事は決して労働ではない。
ではその価値観とは何か。

二.「底辺職ランキング」を生み出す思想

少し前、「底辺職ランキング」という記事を掲載した雑誌が(当然)非難を集めていた。
そのなかには、確かごみ収集員や福祉介護職、清掃員などが含まれていたと記憶している。
どれもいわゆる「エッセンシャルワーカー」、社会にとって欠かしてはならない職であることは、当然皆さんも知っているはず。
しかし、にもかかわらずこのような差別意識が、ダブルバインドとして存在するのは何故か。

筆者の話をさせてほしい。
筆者は毎週図書館で、平均二十冊ほどの本を貸し借りする。
そのため、たまたま不慣れな方が返却を担当されたとき返した本が貸出のままにされるミスが二度三度あり、困っていた。
しかしすぐ傲慢な考えだと思い直した。
現在、図書館の労働者は政府によって、極めて不安定な雇用の下で働かされている。私の馬鹿みたいに借りた本を返却手続きしていた職員の暮らしも、決してゆとりのあるものではないはずだった。
それを私は単なる不愉快さを抱くだけで想像力を止め、一人の人間が私のために働いている事実を―彼に賃金という代価は与えられるがそれでは不十分だ―理解しなかった。 

三.透明化される労働

家事を労働と認めない思想、「底辺職ランキング」という発想のそれぞれ背後にも、図書館の筆者と同じ傲慢さがある。
汚れたシンクは「綺麗にされて当たり前」。本は「返却されて当たり前」。ゴミは「回収されて当たり前」。
その評価は減点方式で、不測の事態があったときだけ可視化され、「怠けている」「この程度のこともできない」と非難される一方で、日々続く労働と、それに従事する労働者は執拗に透明化され続ける。
この「マイナスをゼロにする仕事」に対する無関心さは、はっきりと意識されないだけ、私たちの心に強く根を張っているのではないか。

四.透明化される貧困

「もやい」というNPO法人の活動について少し調べていて、湯浅誠という方の著作を読ませてもらった。
日本の生活保護の捕捉率は先進国のなかでも低く、一方で、実態とは乖離した不正受給への批判がメディアによって広められている。「もやい」は歪められた実態を正すため、現在も活動している。

この生活保護の自立支援策は安倍政権下で強められ、多くの歪みを引き起こしたが、他方、私が忘れられないのは彼がこども食堂に「お礼状」を送りつけたことである。

当然の話だが、本来「こども食堂」は政府が率先すべき社会福祉である。それに一銭にもならない「お礼状」を送りつける。この無理解さはなんだろうか。
筆者は思うが、ここでも前述したのと同様、労働力の透明化が起きていたのではないか。
貧困とは、当然「マイナス」―つまり失くすべきものだ。それをゼロにする労働を、前述した「もやい」や「こども食堂」は果たしている。
しかし安倍氏にとって、それは「労働」として見えなかったのではないか。
「物好きな人間が何かやっている」
その程度の認識しか持っていなかったのではないか。
でなければ、繰り返すが安倍氏が「こども食堂」に「お礼状」を送りつける、無知で恥ずべき所業に及ぶとは思えない。

五.社会の内側にいる棄民

労働力及び労働者の透明化は、当然、労働者の貧困をも同時に透明化する。
かつては社会そのものが機能不全を引き起こし(例えば世界恐慌後のアメリカやナチ党前夜のドイツ)、その結果として貧困者が溢れた。 

しかし現在の日本社会は、少なくとも道端で賭博に興じる貧困者もいなければ、プラカードを首に提げて職を求める失業者もいない。
社会は健全に機能しているように見える一方で、新たな貧困が人々を蝕んでいる。

これまでの貧困は、社会の基礎となる構造が崩壊し、その結果生じていた。
一方で、現在の日本では(小泉政権下の雇用規制緩和はあったが)、まだ明白な形で社会構造の崩壊は確認されていない一方で、「ワーキング・プア」に代表される新しい貧困層が形成されている。
彼らは身なりは普通だし、職にあぶれてもおらず、スマートフォンさえ持っている(ないとまず職が探せない)。

そのためボロボロの服や、汚れた髪、黄ばんだ歯、―前時代の貧困のイメージとは大きく乖離し、視覚的にも中産階級との見分けがつかない。
新しい貧困はその不可視性から透明化され、存在を無視され、訴えれば自己責任論の下、その声を奪われる。
社会は機能している。にもかかわらず、貧困から抜け出せない人々は放置されている。
労働者が、社会の機能不全から社会の外部へ排除されるのではなく、正常に機能する社会の内側で、均質な役割を果たしながら透明化されている。
社会の内側にいながら、彼らは「棄民」である。

六.ケアの透明化が社会にもたらす負債

先に結論を話すと、現在の日本社会はその全体が、セルフネグレクトの状態にあると筆者は認識している。
セルフネグレクトとは、要は自己への無関心である。例えば家のゴミ屋敷化、食への無関心などが症状として見られるが、それは表面的なものに過ぎない。
むしろ根深い問題は、人間が生きるその基盤としての、適切な自己愛が破壊されてしまうことにある。  
「自己をケアする行為の放棄」と呼んでもいい。即ち、自己自身の「マイナスをゼロにする仕事」の放棄である。

そのため、先述した「底辺職ランキング」の発想とセルフネグレクトは、他社の労働か自己の労働かの違いこそあれ、使用不能な(マイナス)状態にあるものをまた使える(ゼロ)状態にするケアワークへの無関心という点で、共通点を持つ。
なぜ、家事労働者やケアワーカーが透明化される原因は、社会全体のセルフネグレクト化にあるのではないか。
即ち、自己に対する最低限度の配慮が私たちの社会から失われているのではないか。

私たちは、例えば子どもの食事や衣服の洗濯が、不可視化された無給の家庭内労働によって賄われる事実を、自明として受け止めている。
即ち、「マイナスをゼロにする仕事」を減点方式の下で当然とする思想は、私たち一人一人の自己に対する最低限度の配慮さえ、翻って破壊してしまったのではないか。
私たちは健全な学生として、労働者として、そこにいることを自明視され、できなければ「甘え」「自己責任」として処理される。
これは、当然ながら生活保護者や貧困者に向けられる非難(「生活保護は甘え」「貧困は自己責任」)と酷似している。

ケアワークは、有形の成果を生み出す労働に比べ意識しなければ目につかない。
だから私たちの社会は、ケアワーク・ケアワーカーを等しく透明化してしまった。
その結果、社会全体として
「ケアはして/されて当然のもの」
と認識するようになり、転じて
「他者にケアされる人間はワガママ/無能」という、現実とは乖離した不平等感を強く抱かせるようになったのではないか。

また、女性に比べ、男性は自己の身体をケアする機会が―月経・妊娠・出産がないため―基本的に少ない。
そこから男性中心的な思想によって、ケアに対する意識の喪失が生まれている可能性もある。

しかし、当然だが自己/他者の心身のケアから完全に逃れられる人間は存在しない。
望む望まざるにかかわらず、全ての人間は広義の意味でのケアワーク従事者である。
ただ現在の日本社会からはその意識が致命的に抜けている。
今、私たちはもう一度、ケアワークについて考え直さねばならない。
ひいては人間の心身が等しく壊れものであることを確かめ、その壊れものの集まりが社会という構築物なのだと、認識を改めねばならない。
それ抜きに、社会をこれ以上男性性的な―他者によるケアを必要としない心身の「強さ」を至上とする/軍隊的―イデオロギーに委ね続け、また、自己の/他者のケアワークを透明化し続けることは、やがてこの社会に取り返しのつかない致死性を招き寄せる。

例えば、この前どこかの議員が引きこもりの子どもを「叱る」団体を褒め讃えていた。
その背後には、当然ながら引きこもりを「マイナス」(異常)と捉え、それを早急に「ゼロ」(正常)に戻さねばならない(その際手段はどうでもいい)という、極めて安直かつ想像力の欠如した思考がある。
だが人間は驚くほど簡単に壊れる。
特に災害やテロといった、人間に取り返しのつかない巨大なマイナスを刻み込む事態を前に、それを元に戻すケアのなんと難しいことか。
その議員に、そうしたケアの困難さへの認識は致命的に欠けている。ケアを外部化し、透明化する価値観の行き着く果てにある、醜悪極まる発言だった。
ケアワーク・ケアワーカーを透明化し、そのケアを甘え・自己責任と脅迫し続ける社会はセルフネグレクトに陥る。そして危機の際に自己を修復する力を持てない、極めて脆弱な構造を有することとなる。
日本社会は現在この状態に陥っている。

最後に繰り返すが、私たちはもう一度人間が弱く脆い存在であると、強く確かめねばならない。

公と私の境界にある死―キム・ワン「死者宅の清掃」・三島由紀夫「憂国」―

今日はキム・ワン氏の「死者宅の清掃」という良いルポルタージュを読んだ。
ついでに、三島由紀夫「憂国」と合わせ話をしたい。

先に内容を紹介しよう。「死者宅の清掃」は副題「韓国の特殊清掃員が見た孤独死の記録」通り、不審死や孤独死の現場を掃除する特殊清掃員である筆者の実体験である、様々な人間の死に際を扱ったルポルタージュだ。
読んで安心するのは、作者の死者たちへ向ける一貫した優しいまなざしである。


ただ、筆者は人が思いがけず孤独に死ぬことにあまり驚きはなかった(一度自殺未遂をしているので)が、猫の死に際は無惨そのものだった。
何より、その死の原因が(直接書かれていないが)違法経営のペットショップ―即ち人為であったことも酷かった。
日本でもたびたび問題になっているが、一部のペットショップの動物の扱いは、例えば吠える犬にホースで水をかけ楽しむなど、暗い暴力性を孕んでいる。
そもそも一個の生命を売り物とする発想に、すでに歪みがあるのではないか。

もう一つ、人間の死は―日本も韓国も高度資本主義社会ではどこであれ―今日、どこまでも個人のものにはならない。
個人の死は高度に社会化され、揺るぎない公性のなかで解体されていく。

三島由紀夫「憂国」を読むたび、それに絶望する三島の叫び声が聞こえてくる。
鯨幕や取り寄せた寿司や、退屈なお経や騒ぐ親戚の子どもや……死が救いがたく卑俗な社会性に呑まれ、個人の死が喰い荒らされた戦後―実態としては戦前も変わらないが―への、激しい抗議の叫び声が。
新潮文庫のあらすじを借りると、

二・二六事件で逆賊と断じられた親友を討たねばならぬ懊悩おうのうに、武山中尉は自刃を決意する。夫の覚悟に添つ夫人との濃厚極まる情交と壮絶な最期を描く、エロスと死の真骨頂(略)。

となるが、筆者は死が徹底した個の領域に留め置かれ、しかも絶対者(天皇)の公性に赦される、ある至福の瞬間を描いたものだと理解している。

詳しい内容は以前扱ったので省略するが、「香りの高い微風に吹かれながら死に就くような」「言いしれぬ甘美な」死を、まさに生きた武山中尉と、その後を追って自刃した夫人の壮麗な死に様は読むものを暗い陶酔に誘い込む。
だが、麗子が扉を開けるそのいち作業を忘れれば、まさしくキム・ワン氏が防臭マスク内にコップ一杯ほどの汗をかいて行う、美しさの欠片もない二人の死体処理があるはずであった。
「憂国」は彼らの死後について意図的に沈黙することで読者を酔わせる。
しかし三島がここまで徹底してわたくしに還元される死を書いてなお、欄外の余白には公性が毎晩ミートローフを作ってくれるおばさんのように(おばさんとミートローフに失礼だ)待ち構えている。

公としての死は、しばしば国民に戦争の悲惨を呑み下させるため、為政者には都合のいいオブラートの役割を果たしてきた。
また詩人の石原吉郎は、シベリア抑留の際、個人の死が完全に公性に帰される様を強く糾弾した。

しかし、死の公性は今でも―漠然とした社会的忘却と隣り合わせに―そこにある。
死は純粋に個人のものと(建前上は)され、ながら、事実は愚かしいほど無様に公に侮辱されている。
(そこで三島は死に至るまでの数年間は天皇という架空の絶対者を規定し、その承認の下に死の持つ公性と私性を融合させようと―「憂国」がそうであるように―奮闘したが、結局は公が私性としての死を泥だらけの軍靴で踏みにじる戦前の暴力性の模倣で終わった)

私たちは私たちの生と死を社会に人質に取られ、その公性に凌辱されている。
花を彼の感傷的な水彩画の獲物としてしか捉えられず、邪魔になれば根ごとむしり取る愚かな絵描きの手が握る花のように、私たちの死は私たちからむしり取られ、今、静かに枯れようとしている。

その点、キム・ワン氏の著作に出てくる、トイレに残るピラミッド型の大便、数え切れない小便入りペットボトル、その他諸々の排泄物や体液を遺し死んだ無数の死者たちは悲惨ではあるが、大人しく棺に収められ「美しい思い出」に加工されてしまう一般的な死者たちと比べたとき、太陽に立ち向かう一羽のカラスのように美しい―それは死がどこまでも公性には回収され得ないこと、死がどこまでも個のものであることのきらびやかな証明なのだから。




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