世界はけっこう曖昧である。あるいは複雑すぎて白黒つけられないから、曖昧にみえるだけかもしれない。なんにせよ、たいていの物事は気持ちよくクリアに分かれてはいない。 この小説は、主人公の少女「ちーちゃん」の思春期頃の日々のお話である。小説であるから、やはりいろんなエピソードがあり、いろんな事件があるのだけれど、全体的にどこか曖昧な感じがある。 解決されないままに残される謎というか、放置される疑問もたくさんある。けど、実生活では謎はたいてい謎のままであるし、その曖昧なところがか
レヴィ=ストロースは面白い。この人の本のえらいのは、よくわからないけど楽しい、というところ。 本書も話についていくのがやっとで、内容を咀嚼できたとはとても思えない。はっきり言って「よくわからなかった」のだけれど、ふりまわされるように言葉を追いかけるだけで楽しかった。アトラクション的な目眩の楽しさである。 タイトルの通り、みること、きくこと、よむことについて、縦横無尽に思考が展開されている。 みるは「絵画を見る」、きくは「音楽を聴く」、よむは「文学を読む」である。人はいか
古本屋で見かけて、悩んだ挙句買わなかった本というのは、やけに記憶に残る。 あのとき買っておけばなあ、という本が10冊はすぐに思い当たる。 逆に、買って思い出に残るものもある。私の本棚にある『夜叉ケ池・天守物語』は奈良の古本屋で、『タイムクエイク』は代々木八幡のあたりの古本屋で買ったものである。 『夕暮の緑の光』には、古書店についての面白い話がいくつかある。私の好きなのは、初めて入る古本屋についての次の一節である。 期待を胸に古本屋に入るというのは一種のギャンブルみたい
天ぷらっておいしいですよね。僕は魚ならキスかアナゴ、野菜ならナスが好きだ。紫蘇とかタラの芽もいい。 でも家では天ぷらをつくらない。油の管理と後処理がおっくうなのと、火事が怖いからである。だから天ぷらを揚げるときの「パチパチシュワー」という素敵な音も聴くことができない。 天ぷらは外食か、出来合いのものを買って食べることになる。天丼はあまり好みではないし、ファンシーな天ぷら屋にも行かないから、頻度は多くない。僕の場合は蕎麦屋で頼むことが一番多い。軽くお酒を飲めるようなお店だと
あなたの青春はどんなふうに終わりましたか? 終わり方なんて覚えてない、という人も、まだ終わってない、という人もいるだろう。私の青春も、知らないうちにいつの間にか終わっていた。 「青春と呼ばれる心的状況の終わりについて」は、『村上朝日堂 はいほー!』という本に収録されたエッセイのひとつだ。私はこの村上春樹という作家が昔から好きで、若い頃はずいぶん熱心に読んだ。本書も何度も読み返した。青春の記憶のひとつである。 久しぶりに読み返してみると(前に読んだのは何年前だろう、思い出
一つ前の記事に続き、こちらも人から薦めてもらった本。 薦めてくれた人は古い友だちだけれども、しばらく会っていない。なので、今僕がその人の顔を思い浮かべたとして、それは何年か前のその人の顔の記憶であって、現在の当人とは別人だろう。こうなると、思い出しているのか、想像しているのか曖昧である。 本書『氷点』を読んで思ったのは、想像力、虚構のもつ力である。人は虚構を生きている。 * 開業医の辻口啓造、その妻夏枝、そして二人の養子(表向きには実子)の陽子。この三人が主要人物であ
人に薦めてもらって読んだ本である。ちかごろは、誰かにおすすめしてもらわないと小説が選べなくなっていて、こういうのは情けないと思う。 しかし「本を読んでいるとそういう時期もあるか」と開き直って人に尋ねて回っていると、これはこれで新しい著者と出会えて楽しい。みんな私の知らない色んな本を教えてくれる。ありがたい。 野呂邦暢の本はこれが初めてだったけれども、これは大変良い本で、立て続けに二度読んだ。それくらい面白い本です。こういうことがあると、まる一日上機嫌でいられる。 本書の
読んだ後、しばらくもやもやした。今もしている。 よい本であると思う。「正義」の問題について、特に「正しいことば」の使い方、言葉遣いに注意を払いながら、噛み砕いて説明されている。 そう、とても説明的な本なのだ。「善」と「正義」を区別する仕方、「正義」の前提としての「公正」、などなど。道徳の授業を受けているような感じがした。 そんな本書では、道徳教育の問題点も指摘されている。 なるほど、そうかもしれない。しかし、なんといいますか、「〈公正〉を乗りこなす」ことだって、それな
詩が誕生するために詩人を必要とするように、庭は庭師を必要とする。 本書では、著者が庭の誕生の現場に立ち会い、そこで見出したさまざまのことが語られる。庭はいかにして生まれるのか、そこで働く庭師の知恵はどんなものか、といった具合である。 たとえば、庭石の配置について、ひとつひとつの「手」が詳細に伝えられている。しかし、映像があるわけでなし、文章と簡易な図だけでは、何が起きたのかをイメージするのは意外と難しい。 その代わり(というか)、そうした細かい記述の様子から、著者の熱心
初めて読んだとき、けっこう気持ちが暗くなったのだけど、お盆だったので読み返した。ちゃんとしっかり暗い気持ちになった。こういう本って好きである。パフォーマンスが安定している。一流の演奏家のように。 食べて気持ちが暗くなる料理とか、会うと気分が落ち込む人、というのは困るけれども、読書については「読んで気持ちが暗くなる」というのは必ずしもその本の欠点ではない。というのが私の考えである。 とはいえ、「なぜそれが欠点にならないのか?」を説明できるわけではない。なんでだろう? 「あば
本書は二章から面白くなる。いちばん面白いのは一章である。 と、こう書くと矛盾しているようだが、面白さの種類が違うのである。二章以降は「グイグイ読み進められる」という面白さ、一章は「噛めば噛むほど」的な面白さ。読み終えた後、折に触れてはふと思い返してしまうのは一章のほうで、そういう文章って素敵である。 そんな一章は主に、クラゲの話である。 メルヴィル『白鯨』は、鯨に関する膨大な記述から始まるけれど、本書はクラゲをめぐる話から始まる。『白鯨』のように読むのに苦労することはな
いつ読んでも良い本、というのがあって、この本はそれである。 本というのは、読み手のおかれた状態や環境によって読み心地が変わる。季節や天気に合わせた服装とか、情景に合った音楽、お酒に合うつまみ、とかと同じである。夏に読みたくなる本もあれば、雨の日にピタッとはまる本もある。 なので、いつ読んでも良い本、というのは、どんな季節に、どんなつまみと合わせても美味しいお酒、みたいな存在である。素晴らしいですね。お酒の趣味と同じで、これも個人の好みの問題に過ぎない、というところはありま
著者と一緒に読んだかのような気分である。 「私と同じようにやりなさい」ではなく「私と共にやりなさい」というのが良い教師である。と、いうようなことをドゥルーズが書いていたけれど、本書の著者は僕にとって良き先生だったわけである。ありがたい。 六人の日本の思想家(と、簡単にまとめていいのかわからないけれど、ひとまず)の「霊性」にまつわる思考を読み解いて、読者に伝えていく。という本である。 そこで、その六人の言葉をいかに読むか、ということになるのだが、その読みが実に細かい。一言
白状すると、読んでいて肩が凝った。 言葉と歩く、という題から、どこかゆるいものをイメージしていたのかもしれない。読んでみると、引き締まっている感じがした。 「批判精神」という言葉が浮かぶ。多和田さんはドイツ在住で、ドイツ語で執筆もされている。「批判」と「ドイツ」にはどこか通じるイメージがある。たとえばドイツの哲学者カントは、三批判書をドイツ語で書いた。 と、安易な連想で片付けると、叱られてしまいそうである。この「叱られてしまいそう」という感覚に、肩が凝ったのだった。でも
岸本佐知子のエッセイはちょっと変だ。たぶん、岸本さん自身がちょっと不思議なひとなのだろう。 と、言ったものの、このひとの書くものに限らず、エッセイというジャンル自体「ちょっと変」な作品が多いようにも思う。 そのほうが面白いから、というのもあるだろう。しかしそもそも、ひとはみなちょっと変だから、というのがより深い理由のような気がする。エッセイは、そうした個性的な「ちょっと変さ」が現れやすい場所なのだと思う。 * 「地表上のどこか一点」という、飼い猫の失踪にまつわる話が収
読み終えた後、悲しみが残る本だった。 どこか見覚えのある悲しみだな、とぼんやり考えていたら、ジョン・ウィリアムズの『ストーナー』を思い出した。ストーナーという男の生涯を描いた物語である。 胡椒と唐辛子はどちらも辛い。でも、辛さの種類が異なる。それと似て、悲しみにも色んな味わいがある。『美しい夏』と『ストーナー』は、その「味わい」が似ている。 それは人の運命の悲しさだ。「悲しい運命」ではない。運命というもの一般の悲しさ。どうしてかわからないけど、「運命」を描いた物語は、僕