山内朋樹『庭のかたちが生まれるとき』
詩が誕生するために詩人を必要とするように、庭は庭師を必要とする。
本書では、著者が庭の誕生の現場に立ち会い、そこで見出したさまざまのことが語られる。庭はいかにして生まれるのか、そこで働く庭師の知恵はどんなものか、といった具合である。
たとえば、庭石の配置について、ひとつひとつの「手」が詳細に伝えられている。しかし、映像があるわけでなし、文章と簡易な図だけでは、何が起きたのかをイメージするのは意外と難しい。
その代わり(というか)、そうした細かい記述の様子から、著者の熱心さのようなものはよく伝わってくる。熱血というのではないが、描写のひとつひとつ、庭師の仕事に対する解釈の手つきなどに、強い思い入れを感じる。
いっぽう、登場する庭師さんのほうはクールというか、職人らしく仕事は緻密だけれども、同時に「その都度やるべき作業を淡々とこなすだけ」というような鷹揚さがある。
たとえば、
という部分。庭師が「〜てみる」という言い回しを多用することについて。「なるほど」と最初は思うのだが、考えてみれば「これから起こることのすべてをあらかじめ知ることはできない」というのは庭師に限らず誰もがそうであって、「〜てみる」を積み重ねること自体は、じつに当たり前の話である。
当たり前、というのは、よくよく注意して観察しなければ見過ごされる言葉遣いである、ということでもある。それを、単なる口癖でなく、庭師の仕事が要請する言い回しとして拾い上げる。
文章の雰囲気に加えて、こういう細やかさに、本書に込められた著者の熱が感じられるのである。
他方、話題になっている「やってみて」という発言には、気楽さというか、ゆるさがある。「やってみて」は、「やりなさい」より気楽だし、「やっといて」より柔らかい。
あるいは、山内さんは非常に論理的・理性的に分析をするわけだけれども、職人さんたちの言葉はどちらかといえば感覚的・身体的である。
このコントラストが読んでいてなかなか楽しい。こういう言葉の温度の起伏というか、ほどよい落差のようなものがあると飽きない。石の配置順を読んでいて「えーと、なんだっけ?」と混乱しても、根気よくページを繰り直して読めるというものである。
ところで、本書で扱われる庭には設計図がない。「〜てみる」が多用されるのは、現場仕事一般とは別に「この庭づくり」の事情にもよるものである。当たり前であっても、強調するだけの理由はあるわけである。
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設計図がないことからもわかるように、庭はあらかじめ計画されて、その通りに成り立つようなものではない。それは運動(物を置いてみる)の連鎖、その「結果」としてあるものだ、という。
だから本書のタイトルは「生まれるとき」なのだろう。それは現場で、文字通り「生まれる」のである。
庭があくまで「結果として生まれる」ものだとすれば、庭づくりにおいて、庭師はそれを一方的に創造する者ではない。結果的に庭の生まれることになる運動、それが行われる場に参与して、その運動がより良い結果へ向かうよう立ち振る舞う、というのがその仕事と言えるかもしれない。
たとえば、庭師の言葉遣いに「ぬすむ(偸む)」というのがある。それについて、
と、山内さんは書いている。ここでは庭師はある種の調整役として働いている。参与の一例として捉えることができるだろう。
「係争状態それ自体の均衡をつくりあげる」というあたり、セッションの緊張感が失われず、しかもそれが途切れないように、演奏の具合をコントロールするミュージシャンのようなイメージだろうか。
ほかにも、庭師の言葉遣いには、「物に有情性があるかのように語る」というものがある。たとえば、「そこに置いて」と言う代わりに「そこに置いてやって」と言う。「その石を移動させて」の代わりに「その石を歩かせて」と言う。
いわば、庭師によって物に有情性が与えられている。しかし読んでいると、その「庭師たちの働きかけ」も、物に引き出されているのではないか、と思えてくる。
なにしろ物を有情化するだけなら、お人形遊びをする子どもにもできるわけで、庭師の技術の妙はむしろ、物からの働きかけに応える、というところにあるように思うのだ。
本書には「石の乞うままに従って」と解釈できる言葉も登場するが、石に乞われ、それに応え、また石に乞う。石と庭師は、そうして庭を生み出す運動を共に行なっている。
庭師は、この先ここを訪れる人たちや、この庭(書いてなかったけどお寺の庭です)で過ごす住職たちのことを考えて石を配置する。庭には未来が巻き込まれている。そして、「初手に先行する配置」があるということは、そこには過去もたたみ込まれているということである。
そうしてみると、庭師の作業する時間の幅よりも、庭が生まれる時間の幅は広いのかもしれない。
これは詩の言葉も同じだろう。詩人は単語や文字をいちいち発明しているわけでない。全編オリジナル言語で綴られた詩など、意味不明である(『フィネガンズ・ウェイク』みたいなものもあるけど、そういうのは特殊なものと考える)。
詩句は常に、その詩に先行して存在する語彙に依存している。そしてまた往々にして、先行して存在する詩や神話などの文学作品に触発されている。
物に行為主体性を認める。物から「こき使われる」とき、職人はみずからの主体性を弱めることで、それを可能にしている、とは言えないか。
とすれば、これもまた詩人の仕事と同じであって、ムーサに「使われる」ように、言葉に「振り回される」ように、詩人が脱主体的に語るときにこそ、優れた詩は誕生する。
庭師の古川氏も、初手に先行する石について「ぼくが据えてないでしょ? だからぼくのクセがないんだよね」と語っている。「クセ」という、主体の痕跡を遠ざける。
詩人の介在なくしては、ムーサの詩想も詩趣も実体化できないように、物を放っておいても勝手に庭にはならない。当然ですが。
しかし、物を一方的に操作する、いわば物を支配するような仕方ではなく、あくまで「石の乞うところに従いながら」仕事をすることを、庭師たちは求めている。
脱主体的に、そこに居ながらにして居ないような仕方で、庭のかたちが生まれる運動を媒介する。庭とは、そうした物と者の交わる運動の、あくまでも結果としてそこに現れるものなのだろう。
庭園はじつに詩である。と、いうふうなことを読みながら何度も思った本でした。