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レヴィ=ストロース『みる きく よむ』

レヴィ=ストロースは面白い。この人の本のえらいのは、よくわからないけど楽しい、というところ。

本書も話についていくのがやっとで、内容を咀嚼できたとはとても思えない。はっきり言って「よくわからなかった」のだけれど、ふりまわされるように言葉を追いかけるだけで楽しかった。アトラクション的な目眩の楽しさである。

タイトルの通り、みること、きくこと、よむことについて、縦横無尽に思考が展開されている。

みるは「絵画を見る」、きくは「音楽を聴く」、よむは「文学を読む」である。人はいかに絵画を見、音楽を聴き、文学作品を読むか。

対象が芸術に絞られているのだから、レヴィ=ストロースはこの本で、広く人間の知覚能力一般を論じているわけではない。人の知覚と芸術作品との関わり、いわば感性の構造を明らかにしようとしているのだと思う。

本書の末尾に、次のような一節がある。

どこでもいい、人間の歴史から任意の千年、あるいは二千年を取り去っても、人間の本性に関する私たちの知識は減りもせず増えもしない。唯一失われるものがあるとすれば、それはこれらの千年、二千年が生みだした芸術作品だけである。なぜなら、彼らが生みだした作品によってのみ、人間というものは互いに異なっており、さらには存在さえしているのであるから。[…]作品だけが、時間の経過のなかで、人間たちのあいだに、何かがたしかに生起したことの証となってくれるのである。

人間がひとりひとり、互いに異なっているのは、芸術作品があるからだ。そうレヴィ=ストロースは書いている。個人とは、芸術によって可能になる。

ジャック・ラカンは、幼児の自我の発生に鏡像段階というプロセスがあると言った。引用した一節において、芸術作品はひとつの鏡のように、その芸術作品と関わる(つまりそれを、みる・きく・よむ)主体を統合し、他者と峻別する働きを持っているようだ。

芸術作品が、人を互いに異なる存在として成立させるとすれば、それは差異を生み出す装置である、とも言える。

私は、紙の本で読むのと、電子書籍を読むのとはまるで別の体験だと考えている。けれど、そこにある差をもっと小さく見積もる人もいるだろう。内容が同じな限り、媒体の差は一切無視できる、という人もいるかもしれない。

こうした差異への人の感性は、個人によってばらつきがある。たとえばデジタル絵とアナログ絵のあいだに大きな差異を感じ取るのは、絵画を見るのが好きな人、あるいは絵を描く人だろう。

真作贋作を見分ける鑑定士の目は、訓練によって鍛えられたものである。似たものから差異を見出すのは特殊な技能だ。

細かな差異が気になる人は、なんらかの形でそうした技能訓練を経ているわけで、その訓練こそ、芸術作品と関わることに他ならない。

情報を得るだけなら電子書籍も紙の本も変わらないし、メロディのパターンを辿るだけならライブ演奏もレコード盤もデジタル音源も変わらない。そこに差があるとしたら、体験の質感だけである。そして、微妙な質感の違いへのこだわりは、美的趣味のあらわれだ。

人は互いに異なるというとき、個々人のあいだに差異を認める感性は、芸術作品における差異を看取する感性と重なっている。

ある人の声や仕草にその人固有の面影を見るときと、ある作品に固有の魅力を見出すときには、どこか似た心持ちがあるようにも思う。

ところで、レヴィ=ストロースは、宗教的儀式について次のようなことを書いている。

そのような演劇的演出によって引き起こされる感性的情動が、事後作用的に自分たちの存在が超自然的起源を有することへの信仰を裏づけるのである。この芝居の演出者や出演者たちは、それが自分たちの作りだすまやかしであることを知っている。[…]しかし彼らの思念のなかですら、起源へのその関係は、仮想的に演出された理想において実在するほかないものであったーー「われわれがそれを演出するために工夫しなければならなかった困難はあったけれども、それが成功した以上、それは真実であった」、というわけだ。

芝居がかった儀式を行うとき、その儀式を演じる人々は、それが芝居だと知りながら行っている。けれども、儀式を終えた後、それは虚構ではなく真実であった、と遡及して儀式の正当性が証明される。

論理的にはおかしな話のように見えるけれど、私たちもフィクションと知りながら映画を見て感動したりする。映画のなかの出来事が実際の出来事でなくとも、そこから受け取ったものは、なにか「ほんもの」として記憶される。

儀式の体験が、ほんとうに神秘の存在を感じさせたなら、たとえ演技だったとしても、そこで起きた体験は真実として受け取られる。

つまり、ほんものらしく見せる演出・演技が、ほんものを実際に生じさせてしまう。

紙幣は「この紙には価値がある」と全員が演じているから価値があるのだし、婚姻に儀礼がなかったら、交際と結婚は区別がつかない。役所に書類を出すのも一つの儀式である。

こんなふうに、人の認識がフィクションの土台の上に成立している、ということは少なくないように思う。紙幣は紙である以上にお金に見えるし、墓石は石である以上にお墓である。

そうしてみると、現実とは「現実」というタイトルの演劇みたいなもの、とも言えるかもしれない。

演劇もひとつの芸術ジャンルである。ものを見たり、聴いたり、読んだりするとき、私たちは演劇的作法を応用することで、フィクショナルな作品から、ほんものの喜びを感じ取っている。そういう見方もできそうだ。

人の作り上げたフィクションの中でも、宗教はとくに規模の大きいものと言えるだろう。

宗教というシステムには、聖画や聖像、複雑な装飾を備えた聖具がある。戒律だけでなく、神や世界の成り立ちにまつわる物語があり、祭りや儀式には音楽が用いられる。

つまり、そこには芸術がある。たとえば同じような統治の枠組みでも、宗教性を排した官僚機構はもっと無機質なものだ。

宗教のあちこちに芸術の要素が見られることは、人の活動にはいつも芸術がそばにある、という印のように見える。もっと言えば、個人が個人として生きるというのは、芸術作品を生み出すということと不可分であると証しているかのようだ。

人がそれぞれ互いに異なることは、芸術作品によって可能になる、とレヴィ=ストロースは書いた。逆に言えば、芸術を味わう感性が失われたとき、互いに異なる個人というものも地上から消え失せる。

誰かに対してこの人でなければ、という感覚を抱くとき、私たちはその人の生を、ひとつの芸術作品として眺めているのかもしれない。

そんなことを書いていたら、ドゥルーズの言葉を思い出した。こうしてみると、ドゥルーズの語った管理型権力とは、まさに芸術を排除し個人を消し去る統治システムの呼び名ではないか、と改めて思ったりする。

生存を主体のかたちで考えるのではなく、芸術作品としてとらえること。生存の様態を考えださなければならない。

『記号と事件』

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