見出し画像

村上春樹「青春と呼ばれる心的状況の終わりについて」

あなたの青春はどんなふうに終わりましたか?

終わり方なんて覚えてない、という人も、まだ終わってない、という人もいるだろう。私の青春も、知らないうちにいつの間にか終わっていた。

「青春と呼ばれる心的状況の終わりについて」は、『村上朝日堂 はいほー!』という本に収録されたエッセイのひとつだ。私はこの村上春樹という作家が昔から好きで、若い頃はずいぶん熱心に読んだ。本書も何度も読み返した。青春の記憶のひとつである。

久しぶりに読み返してみると(前に読んだのは何年前だろう、思い出せない)、本エッセイがとても強く印象に残った。初めて、書かれていることがちゃんと理解できたような気がする。

それはこんなエッセイである。

著者の昔の友達が「青春が終わったんだな、と最近すごく感じる」のだと言う。どういうことかというと、曰く、

あのね、俺男の子いるじゃない。六つだけど。それでその子を見てるとさ、ときどきふと思うんだよ。これからこいつは大きくなって、いろんな女の子と出会って、恋をして、寝て、そういういいことがいっぱいあるんだろうなってさ。でも俺にはもうそういうのは巡ってこない。前にはあったよ。でももうこれからはない。

著者は「今からでも恋はできるじゃないか」と返すのだけれども、彼は「もうああいう気持ちって二度とは戻らないんだよ」と答える。

こういうのって、すごくよくわかる。

歳をとると、昔は出来たことが上手く出来なくなり、同時に昔出来なかったことが出来るようにもなる。睡眠不足が続くとすぐに体調を崩すので、若い頃のような無理はできない。一方で、以前よりは周りが見えるようになって落ち着きが出たりもする。

そういう能力の変化とは別に、巡り合わせの変転のようなものある。出来る/出来ない、ではなく、起こる/起こらない、の変化。あるタイプの出来事は、ある特定の時期にしか起こらない。

出来事というのは、それを受け取る感受性とセットである。台風の接近にどこかワクワクしたり、クリスマスが一大イベントとなったり。こういうのは、幼くみずみずしい感受性があるからこそ、ひとつの事件として経験される。

「恋に落ちる」という出来事が起こるには、それなりの心の下地が必要なのだ。そして十代の頃の心持ちは、それを過ぎると二度と戻らない。仮に恋をしても、それはかつてのような激しい体験には二度とならない。「もうああいう気持ちって二度とは戻らないんだよ」というのは、そういうことだと思う。

そんなのは当たり前のことである。けれども、ときどき、「ああ、そうか、自分にはもうあんな気持ちは訪れないんだな」と、改めて思い知らされるような瞬間があって、そういうことがあった日の夜は、少しお酒が飲みたくなる。

感情の波立ちを、アルコールで紛らわしてやり過ごす。こういうのも加齢の過程で身につけた技術のひとつである。嗚呼。



著者にとっての「青春の終わり」の体験も語られている。

話は著者が三十の時。仕事の打ち合わせで会った女性が、昔の知り合いに人にあまりにもよく似ていた。それで、著者はそれをその人に伝える。「ねえ、あなたは僕が昔知っていた女の子にそっくりなんです。本当にびっくりするくらい」と。

僕は最後にそう言ってみた。言わないわけにはいかなかったのだが、でも言うべきではなかった。言ったとたんに僕も言ったことを後悔した。

なぜなら、その発言は、洒落た口説き文句として、相手に受けとられてしまうからだ。違うんだ、これは洒落た言い回しなんかじゃないんだよ。と、著者は思うのだけれど、そのことは口に出さない。言っても無駄だとわかっているからだ。

僕はべつに彼女の言ったことに対して腹を立てたり、不快な感情を抱いたりしたわけではない。[…]でもそのとき、[…]僕の中で何かが失われ、損なわれてしまったのだ。[…]僕がそれをずっと信頼して生きてきたある種の無防備さーー留保条件なしの手放しの無防備さのようなものが、彼女の言葉によってわりにあっけなく失われ、消えてしまった。不思議な話だけれど、僕はけっこう辛かった日々にも、それだけは傷がつかないように大事に大事に守ってきたのだ。

「手放しの無防備さ」というのは優れた表現である。読むまで思いつきもしなかったけれど、言われてみると、たしかに青春とは、無防備でいられる心持ちのことなのだ。

言葉遣いひとつとっても、大人になると色々と用心しないわけにはいかない。たとえば私は年々、女性を褒めるのが難しくなってきた。仕方のないことである。誰のせいでもない。

「〇〇さんって素敵だと思います」というようなシンプルな褒め言葉だって、若い男の子から言われるのと、中年にさしかかった冴えないおじさんから言われるのとでは、ずいぶん印象が違うものだ。そのくらいのことは私にもわかる。

なんであれ、相手をおびえさせないように、用心深く表現を選んで伝える必要がある。しかし用心深く選ばれた言葉というのは、要するに当たり障りのない言い回し、社交辞令に極めて近いものである。それは自分の感じていることを表現するのとはずいぶん異なる。

すると、相手の服装に感心したり、態度や話し方に魅力を感じても、余計なことは言わずに黙っておく、というケースが増える。沈黙もまた、用心のひとつのかたちである。

ネットで知り合った人と気軽に飲みに誘うということも減った。誰かに(特に女性に)悩みを打ち明けるということも減った。そういうのは全て、社交辞令的に調整された言葉になってしまうからだ。剥き出しの言葉を人に向けるわけにはいかない。けれど、「いつか機会があれば」なんて枕詞のついた誘い文句をいちいち本気に取る人はいないし、礼儀に合わせて調整すれば言葉は本音から遠ざかる。

なにも「歳をとるのは悲しいことばかりだ」と言いたいのではない。なにしろ仕方のないことだし、それに若い頃は若い頃で、素敵な女性を前にすると緊張して自分の気持ちなんて上手く言えなかった。それほどオープンに心をさらけ出せない代わりに、他人と会話を交わすのは簡単になったとも言える。

けれども、かつて、青春と呼ばれるような頃、無防備に自分の感じたことを人に伝えられていた。それもまた事実である。

当時だって会う人全員に緊張していたわけではないのだし、褒めたくなるような、あなたは素敵だと伝えたくなるような人はたくさんいた。そしてあの頃それは、実に簡単に出来たのだ。ただ思ったことを、そのまま口にすればよかったんだから。

でも今はそうではない。そういう心的状況は消えてしまった。たぶん二度と戻らないだろう。

と、いうようなことを、過去に何度も読んだ本から、今になってしみじみ感じ入っているのだから、要するに私の青春もしっかり終わったんだな、と思う。ある意味では、このエッセイを読んで、書かれてあることが理解できてしまうという体験が、その死を改めて確定させたと言えるかもしれない。

実際には、ずっと前から死んでいたのだとしても、こうして墓碑を前にすると、それなりに厳かな気分になる。そんな気分になっても、なんの役にも立たないだろうけれど。なんだかお酒が飲みたいような気がする。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集