若松英輔『霊性の哲学』
著者と一緒に読んだかのような気分である。
「私と同じようにやりなさい」ではなく「私と共にやりなさい」というのが良い教師である。と、いうようなことをドゥルーズが書いていたけれど、本書の著者は僕にとって良き先生だったわけである。ありがたい。
六人の日本の思想家(と、簡単にまとめていいのかわからないけれど、ひとまず)の「霊性」にまつわる思考を読み解いて、読者に伝えていく。という本である。
そこで、その六人の言葉をいかに読むか、ということになるのだが、その読みが実に細かい。一言一句あらためていく、という校正の仕事的な細かさではなく、読み手の側の姿勢について、細かいのである。
たとえば、鈴木大拙を読むに際して、
と、若松さんは書かれている。
「情報を追うのでは“なく”」というのが大切なところだと思う。書かれてある言葉、ある文脈に置かれた言葉の、情報的側面を見過ぎてはいけない。
人と会話をしているとき、私たちは言葉に情報を乗せてやり取りしているわけではない。いや、情報のやり取り“も”しているのだが、会話の主眼は必ずしもそこにはない。
というのも、必要なだけの情報を適宜交換するだけの作業を、私たちはたぶん、「会話」とは認識しない。冗談もなければ挨拶も相槌もない言葉のやり取りをイメージしてみて、「会話」には思えない。「取り調べ」とか「答弁」と呼んだほうが似つかわしい。
会話には必ず、必要でない情報、ノイズのようなものが混じる。それは話者の身体から発されるものだ。そのノイズの方にこそ、言語化しきれない想いの残余があり、「語り」の味わいがある。
情報を見過ぎてはいけないというのはそういうことで、「さっき、〇〇って言いましたよね? その言葉は△△という意味では?」なんて始終問いただされていたら、会話にならない。それこそ取り調べか尋問である。
さて、情報に囚われ過ぎずに、ノイズごと受け取らないと、言葉のエッセンスは掴めない。そのためには「実存的感覚」を開かないといけない。と、若松さんは言っている。では、「実存的感覚を開く」とはどういうことか?
若松さんは別の箇所で、
と述懐しておられる。
「墓所」というのは東慶寺にある小林秀雄らの墓のこと。若松さんは上京した後、なんどもそこを訪ねては「彼ら」と「対話」をされたそうだ。そしてその経験が読書を深めた、という。
いわば、死者と対話するなかで鍛えられた読み方、である。「生々しい彼らとの対峙」とあるように、言葉を「情報」という静的な対象としてではなく、生きたものとして経験するような読み方である。
実存的感覚を開く、ということのヒントは、お墓の前で、自分の偽らざる本心から死者に語りかける、という態度にありそうである。死者は決して応答してくれないのだから、事実上、そこでは語り手も聞き手も、自分自身だ。
だが、そこに語りかける相手としての死者が居る(居ないのだけど、仮想的に居る)ことで、初めて可能になる語りがあるように思う。その人の前でなければ決して自分から発されることのなかった言葉が、そこでは語られることになる。
他者に触発されて、言葉が自分の意図を越えたところからやってくる。触発されるためには、自分を開いていなければならない。
そのことを極端化すると、人間は「言葉の道具」になる。吉満義彦について書かれた、次の一節を読んでみてほしい。
詩人が詩を詠む、のではなく、詩がおのずから語る。詩の誕生する場所は、詩人の自我の外側にある。どこか私たちのあずかり知らないところで自律的に生成される詩と、それを(あくまで道具として)表現する詩人。
この「よそからやってきた」かのような、「自然発生的に、おのずから語る詩」というは、他者から触発されて、ふと浮かんだ言葉、と似ている。
言葉の自己生成を抑圧しない。そして、生まれてきた言葉をうまくキャッチし、余計な加工を施さずそのまま送り出すような態度。そういうのが「実存的感覚を開いた」状態であると思う。
ひとことで言えば、素直になる、ということだろうか。素直といっても「欲望に忠実」というのとは違う。それでは「好き勝手、読みたいように読む」と変わらない。それに「こうありたい」という欲は、「こうでなければならない」という抑圧に容易に転ずる。
もっと透明な素直さ、はからいを持たずに言葉を掬いとり(ノイズごと)、それにやはり、はからいもなしに反応するような素直さである。入る言葉も、出ていく言葉も、滞りなく流れていくような透明さ。
正直いうと、自分で書きながら「そんなことできるのかな……」と疑心暗鬼である。融通無碍というか、なんだか達人の境地のような話だ。井筒俊彦の「無心」の話を思い出す。
とはいえ、若松さんは「実存的感覚を開いて読まねばなりませんよ」と言いながら、実際に、そうした読みを徹底し、開かれた透明感のある言葉で語られている。だから「できるのかな」という疑問に対しては「どうやらできるらしい」と、答えるほかない。
達人ならざる凡夫、煩悩にとらわれて迷いから出られない衆生の一人である私としては、「うーむ、立派な人がいるんだな」と、読んで恐縮すべきところであるが、なにしろ本書は「では、一緒に読んでいきましょう」という空気が柔らかくて、読み終えるまで、かしこまるのを忘れてしまった。
居心地の良い教室のような本でした。