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三浦綾子『氷点』


一つ前の記事に続き、こちらも人から薦めてもらった本。

薦めてくれた人は古い友だちだけれども、しばらく会っていない。なので、今僕がその人の顔を思い浮かべたとして、それは何年か前のその人の顔の記憶であって、現在の当人とは別人だろう。こうなると、思い出しているのか、想像しているのか曖昧である。

本書『氷点』を読んで思ったのは、想像力、虚構のもつ力である。人は虚構を生きている。



開業医の辻口啓造、その妻夏枝、そして二人の養子(表向きには実子)の陽子。この三人が主要人物であると思う。

この辻口夫妻にはもともと、ルリ子という娘が居たのだが、不幸にも誘拐され殺害されてしまう。

そして陽子は、その事件の犯人の娘である。殺人犯は留置場で自死し、その妻(つまり陽子の実母)も事件の直前に亡くなっている。孤児となった陽子を、啓造が養子に引き取るのである。

夏枝はルリ子が殺された日、夫とは別の男と会っていた。その男との時間を愉しみたいがために、甘えてくるルリ子に「お外で遊んでなさい」みたいなことを言って、そのまま娘は殺されてしまう。その日のことは啓造にはとても言えない。

が、実は啓造はそのことを察している。しかし、彼はかなり深刻な不倫を想定しているのだが、実際のところ夏枝は若い男にちやほやされて自尊心を喜ばせている程度である。

しかし啓造にはそんなことはわからない。夏枝ははぐらかすばかりで、疑念は膨らむ。啓造にとっては、妻は不貞を働き、その結果娘を死なせた悪女だ。そんな妻から「養子がほしい」と頼まれたとき、啓造は陽子を連れてくる。犯人の娘を、それと知らず育てさせることで、夏枝を罰したかったのだ。

理由は他にもある。啓造は昔から「汝の敵を愛せ」というキリスト教の箴言に惹かれるところがあった。それを間に受けて「娘を殺した仇の子≒敵だからこそ、この子を愛せないだろうか」という考えが浮かぶ。この過剰な(しかし彼にとっては真剣な)アイデアが、妻に裏切られたという思い込みに押されて、陽子が選ばれたのだった。

夏枝は当初、陽子を「自分の実の娘である」と思い込むほどに可愛がるが、あるときその出自の秘密を知る。啓造の日記を盗み読んでいるときに(日記に秘密を書いてはいけない、とつくづく思う)、書きかけの手紙を見つけて、そこで全ての秘密を読む(秘密を綴った書きかけの手紙を放置してもいけない)。

夏枝にしてみれば、自分は夫の思うようなふしだらな女ではないし、したがってこんな仕打ちを受ける謂れはない。憎きルリ子殺しの娘を育てさせられていたなんて。と、取り乱したのも束の間、彼女は状況を逆手に取り、復讐の計画を思いつく。

気の優しい夫のことであるから、陽子に情が移ってほんとうに愛情を持つに至るだろう。その機を待ってから陽子に出自の秘密を告げることで、何もかも台無しにし、後悔させてやろう。それまでは素知らぬふりをして、今まで通りの母親を演じるのだ、という次第である。といっても、夏枝は陽子が憎たらしくて、だんだんと「いじわるな継母」的にひどく娘をいじめるようになるのだが。

陽子はというと、この子もある頃から「自分は両親のほんとうの子どもではないかもしれない」と考えるようになる。母からの冷たい仕打ち等もあって、次第にそのことを確信してゆく。

しかし陽子はずいぶん気骨のある娘で、「自分はほんとうの両親から見捨てられた、だからこそ、努めて明るくまっすぐに生きて、実の親を(あるいはいじめてくる夏枝を)見返してやろう」と奮起する。自分の境遇から、逆に前向きな生き方を見出すわけである。立派である。

夏枝は終盤で、娘の出自を本人と、陽子の意中の青年の前で暴露する。陽子、啓造に加え、ついでにその「意中の青年」にもひどい目に遭ってほしいようだ。

夏枝は息子ほど歳の離れた、というか長男の学友であるその青年に秋波を送って、それを拒否されたことを恨みに思っていて、この際まとめて意趣返しをしようというわけである。わりに困った人である。



ちょっと余談だけれど、この夏枝という人は素直で単純で情が強く、感情の動き方も少女のようでみずみずしい。その成熟できない幼さが可愛らしく魅力的なのだけれど、一方で、とにかく考え方が幼稚で自己中心的である。人の日記を読んでキレているし、当たり前のことのように息子の友人を誘惑しようとするし、悪いことが起こったらなんでも人のせいである。

こういう人に惚れてしまうと大変だろうな、とつい啓造に同情してしまうけれど、この人がもう少し立派な大人であったら、この小説はこんなにツイストした面白い話にならなかったんじゃないか、とも思う。



さて、秘密を知った陽子は自殺を試みる。その理由というのが印象深く「自分が罪を犯すかもしれない、という可能性に耐えかねて」というものである。

この娘は、先述のように自分の境遇をなんとなく察し、自分のことを「貰われ子である」とみなしている。逆にそれをバネに、明るく、前向きに、まっすぐ生きようと努めている。しかし、努力家の人にありがちなことだけれど、彼女はそうした努力のできない人、とりわけ、逆境に負けて自殺を選ぶような人のことを軽蔑しているというか、見下しているところがある。

そんなふうに生きている娘が、みずからの実父が殺人犯であり、留置場で自死した人物であることを知る。このことは、自分のなかに流れる血が、殺人者の、そして自殺者のそれを継いでいることを想像させるだろう。そしてその想像は、陽子の「明るくまっすぐ生きよう」という無垢な決意は、「自分はまっさらに無実な人間なのだ」と信じ切っていたからこそ可能なものだったと彼女に気づかせる。

自分に対する夏枝のひどい仕打ちは、ゆえあってのことだった(もちろん、陽子に責任はないのだが)。自分はそうした可能性を考慮したことは一度もなかった。自分は無垢だと思っていた。

しかし、今や陽子はみずからの無垢さ・無害さを信じ切ることはできない。自分のなかに罪の可能性が潜んでいることを、嫌でも想像しないではいられない。そしてそれを許せずに自死を選ぶのである。

本書には随所でキリスト教の仄めかしがある。「汝の敵を愛せ」というのもそうだが、ここでの陽子の自死の論理にも、「原罪の発見」のような、キリスト教的なものを感じる。



さて、啓造にとって、夏枝は不貞を働き、そのために娘ルリ子を死なせた女、だった。これは彼の想像力が創り出した虚構である。その虚構が、この人を「娘を殺した男の子を育てる」ことを選ばせている。

陽子の「自分は養子であるからこそ」というのも彼女の頭のなかで編み上げられたものであるし、さらに自殺の動機も「自分も罪を犯し得る」という想像にある。

さらに、結末で明らかになるのだが、実のところ陽子は殺人犯の娘ではない。養子を手配した男(啓造の古い友人である)が、出自を偽って陽子を辻口家に送っていたのである。陽子はルリ子殺しの犯人の子である、という本作の鍵となる設定が、丸ごと作り話、虚構だったのだ。

となると、啓造・夏枝夫婦の、互いに対する復讐も全て、虚構を信じ切って行われたことということになるし、陽子はその虚構に触発された想像で自殺を選んだことになる。

虚構というのは、それをほんとうだと思う人にとっては現実に他ならない。そして個々人にとっての現実は虚構以外ではあり得ない。人は神ではないのだから、有限で不完全な認識のなかで世界をおのおの解釈し、モデル化・物語化してそれを現実とか歴史とか呼んでいる。私たちはみんな、それぞれの「私にとっての現実」という虚構を生きているのだ。

思うに、この辻口家の悲劇の一因は、彼らがあまりにも重い秘密を抱えてしまったことにある。秘密とは、他者と分かち合えない虚構だ。人に語れない物語が、個人のなかで肥大化してゆき、それが、本来ならば家族のあいだで共有されるべき物語の発達を阻害していく。そうしてみな、孤独になっていく。

啓造は、その孤独への慰めを求めて宗教に惹かれ始め、夏枝は頭のなかで膨らんだ想像から独りよがりなふるまいが暴走し出す。陽子はその孤独ゆえに、自分の物語の破綻に耐えられない。

せめて、家族以外の相手にでも、秘密の分有してその重さを減らしてくれる人がいたら、もう少し違ったのかもしれない。と、いうのもただの想像であるし、そもそもこれは小説なのだから「もしも」を考えても仕方がないと言われればそうなのだけれども。

しかし想像力や思い込みというのは侮れないものである。人は自分の頭のなかのモデルで世界を理解している。宗教も信じていないし、オカルトや心霊、陰謀論にもまるで興味がないという人だって、虚構からは逃れられない。と、いうようなことを思った本だった。

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