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今村夏子『星の子』

世界はけっこう曖昧である。あるいは複雑すぎて白黒つけられないから、曖昧にみえるだけかもしれない。なんにせよ、たいていの物事は気持ちよくクリアに分かれてはいない。

この小説は、主人公の少女「ちーちゃん」の思春期頃の日々のお話である。小説であるから、やはりいろんなエピソードがあり、いろんな事件があるのだけれど、全体的にどこか曖昧な感じがある。

解決されないままに残される謎というか、放置される疑問もたくさんある。けど、実生活では謎はたいてい謎のままであるし、その曖昧なところがかえってリアルに感じられた。

ちーちゃんの両親は、新興宗教か霊感商法のようなものにハマっていて、霊験あらたかな水を買っている。健康のためにそれを飲んだり、頭からかけたりしている。水の名前も「金星のめぐみ」というもので、まあばっちり怪しい。

親戚にはそれをよく思わない、というか心配する人もいて、やめさせようともしたけれども、上手くいかず、その結果一家は親族から孤立している。ちーちゃんには姉がいるのだけれども、そうした父母の様子に耐えかねて、物語の途中で家を出てそれきりである。

と、こう書くと、なんだか「新興宗教の闇」とか「宗教二世の背負う苦しみ」についての話のようにみえる。そうした要素は間違いなくあるのだけれど、それだけを描いているわけでもない。もうちょっと複雑で、曖昧である。

両親は信仰によってちょっと様子が他の家の親と違うし、たとえば夜な夜な公園で頭から水をかけ合っている姿を同級生と一緒に目撃してしまって、ちーちゃんが傷ついたりもする。

けれども基本的には娘を大事に思ってる穏やかな人たちであるし、ちーちゃん本人もふつうに親を好いているようである。

未来のことはわからないけれども、小説内の時点において、「宗教二世の苦しみ」と、シンプルにくくれるような雰囲気はそこにはない。父母との感覚のズレはあるけれども、今のところ大きな軋轢ではない。

たとえば「親がジャージ姿で出歩いてるのをみて恥ずかしく思う」なんてのは思春期にありがちな悩みであって、宗教家庭特有のものではない。

怪しげな水を売っている怪しげな宗教団体、というとおどろおどろしい印象があるが、ちーちゃんの語りを通して感じられる雰囲気はもっと微妙なものである。だいたいが「ふつうの人たち」にみえる。

教会の集まりでは「私はあなたのオーラが視える」というようなことを言う人もいて、こういうのはまあちょっと変わっているが、そこで交わされる会話のほとんどは世間話やゴシップである。教会の外と変わらない。

むしろ、そのゴシップのなかに混じる、教会の〇〇さんが詐欺で訴えられているらしい、だとか、教団施設の講堂でむかし集団リンチがあって云々、というような細かなトピックに危うげな感じがある。

しかしあくまで噂であって、真偽は物語の最後まで明らかにならないし、黒い噂というのは教団の外の世間、たとえばちーちゃんの通っている学校でも話されている。新任教師が女子に手を出しているとかなんとか。これも噂のままで真相は不明である。

先に書いた「曖昧な感じ」とはそんなようなことだ。

世間(ちーちゃんの場合、典型的には学校)と新興宗教という二つの価値観は、曖昧にしか隔てられていない。しかし、曖昧でありながら、ときどきあからさまな違いが露出することもあって(たとえば公園で水をかけ合う両親の姿)、独特の切なさがある。

ちーちゃんがそうした二重性を生きられるのは、二つの境目が曖昧であるからだが、同時にそれが曖昧であるからこそ、ときおり生じる裂け目のようなギャップをどう捉えていいのかわからない。それが切ない。

ラストシーンは、ちーちゃんが両親と三人で流れ星をみる、というものになっている。父母が「ほら、今みえた」という流れ星を、ちーちゃんはみることができず、逆にちーちゃんが「今みえた」と言ったとき両親にはそれがみえない。

こうなると「一緒に流れ星をみた」と呼べるのか微妙なところである。

この場面の前には、両親とちーちゃんが、お互いがお互いを探して行き違いになる、というようなくだりが何回か描かれている。だからラストシーンを「この親娘はすれ違い、もはや同じものをみてはいない」という決別のしるしのように読むこともできる。

けど、なんだかしっくりこない。それではあまりにキレイすぎるというか。

たぶん、たしかにこの親娘はすれ違っているし、流れ星を一緒にみる、あるいは一緒にみられないシーンは、もう同じものをみていない、ということでもあるのだろう。それはそうなのだが、それだけでなく、そこにはもっと微妙ななにかがあるように思う。

たとえば、ちーちゃんは両親とすれ違い続けながらも二人を探し続けるし、一緒にみえないのに、一緒に流れ星を見続ける。

考えてみれば、「新興宗教」のような分かりやすい違いでなくとも、人と人とは物事を違ったふうにみているのだし、しょっちゅう誤解やすれ違いを起こしている。親子であれば立場の違いや世代の違いもある。

そうした違いはあからさまな場合もあれば、曖昧な場合もあるし、その違いによって人間関係に亀裂が入ることもあれば、問題にならない場合もある。基本的にはそういう曖昧さを曖昧に乗りこなしていくしかない。でないとどちらかが滅びるまで、というようなことになりかねない。

ではちーちゃんの「同じものがみえなくても、あくまで一緒に見続ける」という態度が、そうした違いを、たとえば「乗り越える」とかそういうことなのかというと、それもしっくりこない。そこまで確信的な姿勢ではない。

「なぜ二人にはみえないのか」という苛立ち、フラストレーションもあるし、それはそれとして「まあいいか」というような感じもあって、そこはやはり複雑というか曖昧なのである。

その「まあいいか」的なものが、諦めなのか妥協なのか許しなのかはわからない。これもやはりはっきり分けられるものではないのだと思う。

一緒に流れ星をみるとか、あるいはたんに、誰かと一緒に居ることとか、そういう「一緒に」というのは、そうした曖昧さを抱えていないとできないことのように思う。

人と人とは、曖昧さや、明かされない謎、理解し合えなさのなかで感情を交流させて、お互いの温かさを感じ合っていくしかない。と、いうふうに書くと、これもちょっとスッキリし過ぎているような感じがするけれど、そんなことを思った小説だった。

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