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朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』
読んだ後、しばらくもやもやした。今もしている。
よい本であると思う。「正義」の問題について、特に「正しいことば」の使い方、言葉遣いに注意を払いながら、噛み砕いて説明されている。
そう、とても説明的な本なのだ。「善」と「正義」を区別する仕方、「正義」の前提としての「公正」、などなど。道徳の授業を受けているような感じがした。
そんな本書では、道徳教育の問題点も指摘されている。
どういうわけか小学校の道徳教科では「公正・公平」を、個々人が努力して養うべきものとして教えることになっているのです。それはあまりに途方もない、法外な目標設定でしょう。こうした「正しいことば」が日本語において空虚に響くとしたら、それは初等教育における無茶な用法と無関係ではないと思います。
なるほど、そうかもしれない。しかし、なんといいますか、「〈公正〉を乗りこなす」ことだって、それなりに遠大な目標ではないですか。と、読んでいてツッコミが浮かんでしまう。すみません。
「公正」を個々人が努力して養うべきものとして捉えるのは、たしかに本書の考えにはそぐわないだろう。本書における「公正」は「徳」のような個人の属性ではないから。
しかし、いっぽうで本書が提唱する「正しいことばを乗りこなし、会話における事故をなくす」ことは、個々人の努力にかかっている。それを個人に委ねず、言葉の運用を法的・制度的に取り締まったり、「正しいことば」が一部のエリートに独占されるような事態が望ましいわけはないのだから。
ひとりひとりが言葉の操作精度を高めれば、「公正」の不在による不正義の横行はなくなる。少なくとも今よりずっと減る。そうした希望が本書には託されている。そうなるといいなと思う。自分も一個人として精進(というか注意深くなるというか)せねば、などと思ったりもする。
けれども、同時になんだか虚しいような、さみしいような気分にもなってしまう。こういう気分は何かを予兆しているようで不吉である。
操作精度の向上で事故が減る、というのは、車の運転も同じである。全員が交通ルールを守れば事故はずいぶん減るはずである。が、実際のところ、不注意による交通事故は毎日起きていて、我々は交通ルール程度のことを守るのにも苦労している。
「正しいことばの操縦」が、「交通ルールを守った運転」より簡単であるようにも見えず、それは僕が悲観的なだけかもしれないけれども、なんにせよそう思えてしまうと虚しいのだ。全員の頭が良くなれば世の中も良くなるよ、と言われても虚しいような感じである。著者はそんなこと言ってないのだが。
そんな具合で、どうも読んでいてしんどい。
とはいえ、先にも述べた通り、しんどいし、もやもやするが、よい本であると思う。少なくとも、読んで何かを考えさせられる本である。
なんの引っかかりもなく「なるほど! その通り!」と思わされる本は、読んでいて気持ちいいけれど、後になって振り返ると「うーん、大した本じゃなかったかもしれない……」と思ってしまったりすることも少なくない。
つっかえながら、引っかかりながら、もやもやしながらしか読めない、くらいの方がよい本である。というのが僕の考えである。
そのうち、もやもや考えさせられながら過ごしてるうちに、何か思うところも変わるしれない。変わるといいなと思う。