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野呂邦暢『夕暮の緑の光』


古本屋で見かけて、悩んだ挙句買わなかった本というのは、やけに記憶に残る。

あのとき買っておけばなあ、という本が10冊はすぐに思い当たる。

逆に、買って思い出に残るものもある。私の本棚にある『夜叉ケ池・天守物語』は奈良の古本屋で、『タイムクエイク』は代々木八幡のあたりの古本屋で買ったものである。

『夕暮の緑の光』には、古書店についての面白い話がいくつかある。私の好きなのは、初めて入る古本屋についての次の一節である。

長い間、さがしていた本が見つかるかもしれない。思いがけない掘り出しものをするかもしれない。胸がしきりにときめくのである。ちょうど女と逢い引きするときのような、不安でいて甘美な期待に満ちた瞬間に似ている。

期待を胸に古本屋に入るというのは一種のギャンブルみたいなものだが、このギャンブルにはロマンチックなところがある。だから何かと記憶に残りやすいのかもしれない。

ほかには、フィリップの「小さき町にて」を百円で買った話。その本を友人に貸したら面白かったほめてくれて嬉しかったが、洪水で家もろとも流されてしまって今も有明海のどこかに沈んでいるだろう、とか。

あるいは、少年時代は月に一回、一冊の文庫本を買うのがやっとで、悩みに悩んでその一冊を選ぶのだが、あるとき本屋で一度に三冊買ってる青年をみて憧れた、いつか自分も三冊一緒に買ってみたいと思ったものだ、という話なんかも良い。

本の話のほかには、著者の故郷諫早の話、学生時代の友人の話などが多かったように思う。それと影響を受けた詩人、伊藤静雄の話も印象深い。

どれもノスタルジックな話で、細部まで鮮明に記憶されているのに感心するが、それより印象的なのは、その語り口がカラッとしていること。情感がこもっているのに、文章にベタベタした手触りがない。

ドライな文体とセンチメンタルな話題の取り合わせは、意外と読んでいて心地が良い。それは多分、そのドライさに冷たさが含まれていないからである。

「昔、こんなことがあった。ま、過ぎ去ったことだがね」といった感じである。あくまで「過去のこと」と切り分け、現在とのあいだに節度を設けている。けれども、「どうでもいい」と切り捨てる態度ではない。

予備校に通っていた頃、お父さんが破産宣告を受けた上に大病をして進学を断念したなど、なかなか苦労も多かったようである。そうした話をするときにも湿っぽさがない。

野呂さんは1937年の生まれである。出身は長崎市。月に一冊の文庫本、という話から伺われるように、とりわけ裕福なご家庭に生まれたわけでもない。そして1945年、諫早に疎開している頃に、原爆投下があって故郷を文字通り失ったということだ。

想像でしかないけれど、その時代、そうした社会的階層で生きることは、決して楽なことではなかったはずだ。そこではタフなメンタリティが要求されたことだろうと思う。

人の言葉は、さまざまな外的影響のもとで育まれる。母語が何語になるかは、たまたま生まれた土地によって決まるし、時代による価値観の変化も言葉に影響する。

文体とはスタイル、すなわち生き方である。ドライな文体は、それを養う土壌があってこそだ。

野呂さんのクールでドライな語り口と、ノスタルジックな話題のあいだのバランス感覚、あるいはギャップに、著者の生きた時代の影を見ずにはいられない。

時代が言葉に影響するのは、現在についても同じである。政治的正しさが求められる時代では、言葉にもそうした正しさへの配慮が要求される。主張の明快さより、無害な言い回しが重視されるようなこともあるだろう。

昔のバラエティ番組を今になって見返すと、ちょっと驚いてしまうような表現が当たり前に飛び交っているが、未来から見れば現在の言葉の用法も奇妙に映るかもしれない。

普遍的なものもあるだろうが、それにしても時代は変わる。今ある文化、流行、言語環境は避けがたく失われていく。

野呂さんはこんなことを書いている。

地上から消えた私の故郷も記憶の中には鮮明に生きている。芸術とは記憶だ、と英国のとある詩人が語っている。なんであれ断ちがたい愛着というもののない所に小説が成立するはずはない。愛着とは私についていえば私の失ったもの全部ということになる。町、少年時代、家庭、友人たち。生きるということはこれらのものを絶えず失いつづけることのように思われてならない。

生きるとは、失い続ける過程にほかならない。そうして失われたものとのあいだの繋がりが、愛着だという。

断ちがたい愛着と、失い続けるほかないという諦念。この二重性が、ドライな語り口で失われた過去について語る、ということを可能にしているのかもしれない。

これも想像に過ぎないけれども、原爆投下による故郷の消失は、失ったことの否認や、その回復を望むことを不可能にするような強烈な体験だったのではないかと思う。

フロイトは、人が大切な存在を失ったとき、その対象への愛着から離脱していく過程を「喪の仕事」と呼んだ。喪失を受け入れ、別れを告げるまでのプロセスである。

野呂邦暢の語る、失ったものへの断ちがたい愛着とは、そのプロセスの後の話だろう。死者を「悼む」のではなく、「偲ぶ」ときの気持ちとでも言えるだろうか。喪失を忘れることだけが傷からの回復ではない。

さよならを告げた相手の思い出を温めておくこと。愛着とは、そうやって心のなかに生まれる熱ではないかと思う。

過去にちゃんと別れを告げるのがポイントであるように思う。いつまでも「あの本買っておけばなあ」とか悔いているのは、あんまりクールじゃないのである。

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