『シナジー、創造と生成のあいだ』------「人間のこころみ」。東京都現代美術館。2023.12.2~2024.3.3。
コロナ禍以来、見る機会が減ってしまったけれど、それでも、時々、アートを見たくなる。
特に、嫌でもいろいろと考えさせてくれるような現代アートに接したくなるのは、急に興味を持ってから、もう20年以上がたって、その間に個人的には辛い時があっても、そういうときにこそ、アートを見に行き、気持ちがさらに底に落ちるのを支えられた記憶があるからかもしれない。
最初は、美術鑑賞のようなものは、どこか自分と関係のないような優雅なことだと思っていたのだけど、いつの間にか、自分にとって必要なものになっていた。
東京都現代美術館ができた頃、ちょうど現代アートに興味を持てて、そして、1999年から始まった「MOTアニュアル」は、ほぼ全部見てきたのは、そのころの若手作家を中心にしたグループ展で、大体は、それまで知らないようなアーティストばかりだけど、とても新鮮で、より気持ちにも刺激があったからだった。
考えたら、この企画が始まってから20年以上が経つ。
シナジー、創造と生成のあいだ
それほど華々しく宣伝するわけでもないし、今回も、知っているアーティストが大勢参加しているわけでもないけれど、いつも私にとっては新鮮な展覧会になるので、ぜひ、行きたいと思っていて、そして、天候や健康やさまざま事情によって会期終了ギリギリになってしまったのだけど、それでも妻と一緒に行けることになった。うれしかった。
新橋からバスに乗って、約40分。たっぷりと時間をかけて、だけど、バス停からはすぐなので、ありがたかった。美術館の中は、会期終了間近とはいえ平日のせいか人も少なく静かだった。
そして「MOTアニュアル」の入り口には、チラシと同じビジュアルで、「創造と生成のあいだ」というタイトルがプロジェクターのようなもので映し出されていた。
ホームページには、こうした文章があり、入り口にプロジェクターによるタイトルがあって、もしかしたらテクノロジーが強調されすぎるのではないか、といった警戒心が出てしまったのは、恥ずかしながら今だに機械に弱いからかもしれない。
手作業
展示室に入ると、原稿用紙を模した作品が並んでいる。
そこには、いわゆる文豪といわれる夏目漱石や、太宰治の本があって、その下に手書きと思われる原稿用紙の「立体」がある。
それは、最初、CG的な映像を使っているのかと思ったら、文字を針金で再現し、それに、書く順番によって高さをかえていた。だから、上から見えると、文字を書いて、そこを修正して、さらに赤字が入っているのが平面的に見えるのだけど、少し斜めから見たら、その文字の高さが違っていて、赤字が最も高い位置にあるのがわかる。
それも、文豪が残した原稿用紙の文字を再現するかのように作品が制作されていた。
ここで、やっとこの展覧会の企画の意図のようなものに気がつく。
私が最初に思ったように、残された原稿をテクノロジーによって再現することも可能だと思うのだけど、おそらくは、その再現を、最後は針金を使った手作業で表現している。
荒井美波の作品。
そのことを知ったとき、その作品から受ける印象は、単純な感心ではなく、もう少し複雑な感覚になった。
この文章に書いてあるほど、整えられた思考にはならないけれど、それに近い感じが、作品を見始めて、やっとわかった。
テクノロジー
他にも個人的には印象的な作品はいくつもあった。
暗い部屋で、入り口やその中にもスタッフの方々がいて、光源を所持しながらガイドをしてくれている中で、次々と形を変える光の造形があった。
それは、動きもあって、不思議にも思えたし、単純にきれいだった。でも、妻が近寄って初めてわかったのだけど、立体が実在した上に映されている映像だった。もちろんテクノロジーがなければ、これだけ次々と複雑に変化する表現はできないはずだけど、私は、全部が光だけで造形されていると思っていたので、それが、立体があるからできるのを知った時も、やはり微妙な感覚になった。
後藤映則の作品。
後藤の作品は、展示室だけではなく、屋外にも立体物として展示されていて、それは回転を続けることによって、変化を生み出そうとしていた。光の作品は、もろそうに見えたけれど、この屋外の作品は、とてもしっかりしていて、それでいて異質感もあり、そばで見てもいいけれど、美術館の中からガラス窓の向こうに見えて、その姿も、魅力的に思えた。
持ち帰れるもの
そして、展示室の中に入った途端に大きな音を立てている作品もあった。
バイクが2台ワイヤーで吊り下げられ、組み上げられた三角錐の形の大きめの枠があって、その頂点に向けて、引っ張り上げられている。それから、またそのバイクは下ろされて、床について、一連の動作は終わったようだ。
最初はなんだかわからない。
それで、近くにいた美術館のスタッフの方に聞いてみる。
すると、本当はその展示室にも説明があったけれど、美術館の外にさっき見た太陽光発電のパネルがあり、そこで発電された電気が、この作品のモーターに送られ、そのことによって2台のバイクが持ち上げられる。そして、一番上までいったら、少し経ってから、そのバイクが下ろされる。その時に、その重力でまた発電され、その電気は作品のそばにある機械によって、スマホなどの充電ができる、という作品だった。
私と妻は携帯もスマホも持っていないので、ちょっとうろうろしていたら、その説明を一緒に耳にはさんだ人が、充電したいと言ってくれたので、その作品の前に行き、最初は、持ち上げるための電力がたまるのを待ち、それはランプで知らせてくれるので、ボタンを押す。
その動きはさっきと変わらないのだけど、自分が関与していると、ちょっと気持ちが違う。大きい音でゆっくりと2台のバイクが持ち上がっていく。そして、頂点に達する。スマホを持っている女性がすでに接続してくれていたので、バイクが下がっていくと、その重力による動きによって発電がされて、バイクは床についた。
思ったよりも充電できたことを、その女性は教えてくれて、持ち帰ることができる作品だと感じると、何かそこで相互交流ができて、自分が電気をもらったわけではないのに、ちょっとうれしい気持ちになった。
やんツーの作品。
映像と行為
それから、小学生の作品もあったり、箱が動いて枠を通り過ぎるような動きが制御されているだけなのに、ずっと見ていられたりする作品もあった。
さらに、自分の行為を撮影し、それも含めて展示してある作家たちもいる。
花形槙の『still human』。
全身タイツのようなものを装着し、目の部分に映像が映し出されるゴーグルをする。そして、そのカメラをお腹だったり、足先だったり、お尻だったりと、別の部分に装着する。そのことによって、人間ではないもののようになれるのでは、というような狙いが、冷静に図も含めて説明がしてある。
確かに視覚は、人間にとって情報を得るのに、重要だから、どこから見るかが変われば、感覚も変わるかもと思えた。
そして、作家は、どうやら自分自身でそのタイツを着て、カメラを体のさまざまな部分に装着し、それでコンビニに行ったり、熊野古道を歩いたり、公園で子どもと遊んだりを撮影し、映像として流している。
その姿は、その狙いのクールな印象とは違って、コントのように見えたけれど、潔い作品だと思った。テクノロジーを導入し始める時の、ぎこちなさも見事に表現されているように感じたからだ。
市原えつこの作品。
どうやら食をテーマにした作品で、会場には、その食事を形にした立体が並んでいる。それと同時に、その内容と背景を伝える映像も流れている。コロナ期は、現在でもあるのだけど、その時の飛行機内で提供される食事のことを話をしていて、それも、エコノミークラスの機内食についての「あるある」のようなことを伝えてくれている。
それは、やはり、ちょっと笑えるような内容でもある。
さらに、食事が立体になっている作品はあと二つ。それは、比較的近い未来、さらには、もっと遠い未来。
どちらもディストピアの気配が強く、食糧が不足しているので、昆虫を食べなくてはいけなくなったり、さらに未来はもっと困窮しているから宗教的な団体が力を持っているような設定で、それも、それぞれ作家自身が、映像の中でその時代の食事のことも、ちょっとホラー映画の登場人物のように話をしている。
悲惨な状況というのは、自分とは関係のない場所から見ていると、実は笑い話のように思えることが少なくない。この展示物の、どこか不謹慎な雰囲気はそのことも表現しているように思えた。そこにはブラックライトに反応するスタンプがあったので手のひらに押した。
菅野創+加藤明洋+綿貫岳海。その3人のユニットによる作品。
掃除ロボットが少し装飾されて並んでいて、それは、その掃除ロボットが戦隊ヒーローもののように活躍(?)するような、それも明らかにスマホで撮影されたと思われる縦長の画面で展開される映像が流れている。それもバカバカしいと思いながらも、とても短いストーリーを10本以上続いているから、その前に小さいイスもあるので、そこに座って、つい見てしまう。
そして、自分自身は所持したこともないのに、これだけある意味では「安っぽい」(失礼。それに、この完成度を上げないのは意図的だと思われるけれど)映像を通してでも、そこに登場する掃除ロボットを擬人化してみることができるのに気がつく。
それは人間の感情の柔軟さのようなものだと思った。
おしゃれ
展示の最後の作品は、油彩だった。
それもいわゆるホワイトキューブのような展示室にして、そこに何枚かの作品がゆったりと並んでいるから、それぞれの絵画をじっくりと見ることもできる。
絵画、というとても古くから続く、そして、行き詰まったとか、終わったとか、言われながらも、ずっと制作され続けてきた表現だけど、ここにある作品は、新しい感じがする。
スライム状の半液体のような物体が、人間の顔にからみつくようにあって、でもそのことを絵画の中の女性は不快に思っていないような、どちらも溶け込んでいるような気配。
絵の完成度は高く、なんだかカッコよくオシャレに見えて、それで、作者は20代で、今年(2024年)東京藝術大学の大学院を修了予定で、すでにこれだけの作品を制作し、この感じは、広く受け入れられそうで、見ていて気持ちよかったけれど、この作家のプロフィールのことを思うと、なんだかうらやましくて、ざわざわした。そういうことは意図されていないと思うのだけど、そういう自分の気持ちの揺れも、なんだか面白かった。
友沢こたお。
しかも、こうしたアーティストネームをつけるところに余裕も感じて、さらにじわじわした気持ちになったけれど、でも、その作品は確実に、少し未来に思えた。
人間のこころみ
展示会場では、スマホなどを使って、仮想空間での展示などを試みている作品もあって、それについては、私も妻も持っていなくて十分に楽しめなかったと思うが、ただのテクノロジーの最先端を紹介する、というよりは、そういう生成AIなどが登場してしまった現代に、人類である作家がどうやって作品を制作していくか?という「人間のこころみ」を見せてもらったような気がした。
それは直接比べるものではないとは思うが、写真機が本格的に実用化された後、絵画をどうするのか?ということを試行錯誤した「印象派」のあり方と、少なくとも相似形ではあると思った。
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