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「充実した常設展示」-------- 東京都現代美術館。

 美術館に行くときは、その時期に開催されている企画展を目的に出かけることが多い。

 だから、常設展は、その鑑賞のあと、心身の余裕があれば見ることになる。気持ちの中で、ついで、といった感じがあって、東京都現代美術館ができた頃も、そんなふうに常設展を見ていた。

 建物の隅っこに常設展の入り口があって、そこから歩いて入ると、現代美術の定義の一つといわれる1945年以降の作品が並んでいる。
 それは、確かに日本の美術の歴史であって、重要なのはわかるのだけど、2000年代の初頭までは、常設展では、そこにいつも同じような作品を見ることになって、だから、どうしてもマンネリな感じがしてしまって、余計に見る機会が減っていた。


常設展の変化

 それが、いつのことかよく覚えていないのだけど、東京都現代美術館の常設展は変わってきた。もしかしたら、3年の期間を使ってリニューアルした後の2019年以降かもしれないし、それ以前かもしれない。

 どちらにしても、明らかに変化があった。

 毎回、常設展であってもテーマを掲げることは慣習化されているようなのだけど、最近(2020年代)は、そのテーマに沿っていて、企画展と思えるほど新鮮で充実した展示になっている。

 だから、ここ何年かは、企画展を見て、それが興味深いほど微妙に疲れるのだけど、それでも、常設展に足を向けるようになった。

 妻と一緒に東京都美術館に行って、企画展を見て、そのあとに疲れていたとしても、妻にも、できたら常設展を見ようと、以前よりも積極的に誘うようになったのは、その展示が魅力的になっていたからだった。

 そして、見る前には、どんな展示かもわからないのだけど、ここ最近は、実際に鑑賞しても、期待を上回ることが多くなっていた。

 今回の常設展は、2023.12.10~2024.3.10までの期間だった。

歩く、赴く、移動する 1923→2020

 展示室には戦前の作品から並んでいた。それは「現代美術」という定義から見たら違うのかもしれないけれど、それにはきちんと意味があった。

 最初の展示室のテーマは「1.東京を歩く」だった。

街を歩き、そこで出会った風景を描くこと----- 冒頭の一室では、今年100年の節目を迎えた関東大震災から、第二次世界大戦後までの東京を一堂に展示します。

(「常設展パンプレット」より)

 災害のことは、自分自身が当事者でないほど、忘れていくことが多い。それは、自分でも情けないというか、恥ずかしい思いもあるのだけど、もしかしたら、大災害ほど忘れたい、というような気持ちさえあるのかもしれない、とも感じる。

 だから、関東大震災から100年経ったことも、全く知らなかったのは、そうしたことを覚えたくないような思いがあるせいだろうけれど、それだけの年月が経っても、こうして、その現場を知っている作家が描いたスケッチでさえも、その大震災によって、何もなくなってしまったことは伝わってくるし、日常が嫌でも変わってしまったことも描かれている。

 その行為は、パンフレットによると、鹿子木孟郎「罹災者の非難を浴びながら」の写生でもあったようなのだけど、それは、いつの時代の災害でも共通することでもあって、だけど、このことを残さなければ、という使命感のようなものもなければ、できなかったことだろうとは思う。

 そして、松本竣介の戦中戦後のデッサンや、スケッチなども並んでいた。

 その展示室の意味の重さに改めて気がつけたのは、常設展とは思えないほど、40ページにも及ぶ、デザイン的にも力が入ったのがわかるパンフレットがあって、それを持ち帰り読んだからで、鑑賞後に時間が経ってからでも、そうした資料があると、自分の中で作品の意味自体が変わるのが分かる。

現場、清澄白河、世界

 赴いたり、歩いたり、移動するのは、東京だけではなく、さまざまな場所になる。

2. 現場に赴く」では、社会の現場といえる場所を描いた作品が並んでいる。

戦後日本において政治的/社会的な事象の現場に赴き、それを取材して描く「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる表現を見せた作家たちを取り上げます。

(「常設展パンプレット」より)

 労働問題など、戦後すぐは、特にさまざまな課題があり、そうした現場のことについては、おそらくは内部に入って撮影なども難しくても、そうした事象を取材して描くことはできる。
 そうした思いもあって、制作された作品だろうから、そこには重さもあるけれど、当たり前だけど伝わる力も強かった。

 そして、こうした作品が、この東京都現代美術館の初期の常設展で、展示室に入ると最初の方で並んでいた印象だった。

「3. 清澄白河を歩く」

 この美術館の地元が清澄白河で、1990年代後半に、この美術館ができた頃は、何もないような場所に思えていた。古くからの商店街はあったけれど、個人的な印象では、2015年にブルーボトルコーヒーが清澄白河に日本初上陸してから、他のカフェやオシャレなショップが増えてきたように思う。

 その以前のスケッチも展示されていたが、現在に近い風景は「ワタリドリ計画」が作品化してくれていた。

 麻生知子と、武内明子の二人が、日本全国を旅して、それを題材にして展示を行うプロジェクトで、「ワタリドリ計画」の作品を最初に見たのは、岡本太郎美術館で、受賞作品としてだった。
 そのときも、人間が身近に感じられる範囲を、丁寧に手作り感が伝わってくる形にしていて新鮮だったが、今回の展示は、2020年当時に、美術館周辺の深川を旅して制作されたものだった。

 絵画を中心に、カルタの制作まで行っていて、それは、都内という身近な場所であっても、旅が成立することや、美術館の周辺は観客として何度か訪れている場所だったから、知っていると思っていても、まるで知らないことが多いようにも感じた。
 映像作品もあって、それは、テレビで見る「街歩き」のようでいて、柔らかさはあるものの、独特の生々しさがあって、目が離せなかった。

 この「ワタリドリ計画」の作品があったことで、今回の常設展を見てよかった、と改めて思えた。

 他にも、世界を歩いたり、移動そのものを作品化したりして、スケールも大きく、もしくは視点が混乱するようなものだったりもして、それは、これまでの常設展でもしかしたら見たことがない作品が並んでいたように思う。

 ここまでも、長い時間を行ったり来たり、身近な場所だったり、遠い世界へ向かったり、といった作品が展示されていて、気持ちや思考もあっちこっちへ動かされた気もして、少し疲れたけれど充実した思いになった。

 そして、1階の展示の最後には、文庫本を使った作品があった。

 それは、ささやかに見えて、物理的にも小さかったけれど、文庫本に刺しゅうを施した作品は、特に妻は、とても熱心に見ていた。
 それは、小さな工夫にも思えたけれど、その文庫本は、旅や冒険に関する作品で、作者の福田尚代が繰り返し読んでいた大事な本らしく、そのことが、その文庫本を読み込んだ状態にしていたし、そこに時間が形になっているように思えて、作品に力を与えているように見えた。

特集展示

 3階に行き、展示室に入ると、サム・フランシスの作品が並んでいる。

 とても大きく、空白が広すぎると思っていた作品が、壁一面に広がるように設置されていて、そこにはベンチもあるから、時間があればもっとゆっくりとしたいくらいだけど、やっぱり気持ちがよかった。

 そして、こうした作品は、何枚も、広くて天井が高い空間にあってこそ、力を発揮するように今回も思えた。

 次の展示室には、横尾忠則のゆかりの作家たち、というテーマで作品が並んでいる。

 こうした「ゆかり」というくくりで、紹介される場合は、かなり強引なことも多いのだけど、横尾忠則は、長く現役で積極的に作品を制作し続けていることもあって、本当にいろいろなアーティストと関わりがあることを改めて知ったりもする。

 その中で、ジェニファー・バートレットという作家は、初めて知った。

 重く強い色合いで、力強く描かれた絵画。それと呼応するようなざっくりとした立体がそばにあって、何とも言えない広がりを感じた。

 そして、こういう場所で、知らない作家を知ることができたのも、収穫だった。

 横尾忠則は、「水のように」というテーマで、また特集展示がされていた。

 この20年間でも、横尾忠則の作品は、あちこちで見てきた。昔のスター・デザイナーでもあったことは知っていたし、ポスターも有名だし、それは過去の作品ではあったけれど、新鮮だったし、何より横尾は、それから今までの長い時間も現役で、しかも、新しい作品を文字通り次々と大量に制作していたから、新作も見ることができてきた。

 その作品は、いつも一目見て「あ、横尾忠則だ」と分かる作風は同じだったのだけど、次々と違うことをテーマにしていて、だから、いつも新鮮に感じた。年齢のことを語るのは失礼だとは思うけれど、80代後半で、観客に、次の作品へ期待させるのはすごいことだと改めて思う。

 今回の特集展示も、見たことがある作品と、見たことがないかもしれない作品が混在していて、それも時代も結構バラバラだったはずなのだけど、横尾作品としての統一感はあった。

 何だかすごい。

常設展

 3階の最後の展示室には、いつも宮島達男の作品がある。

 壁を覆うような大きさのボードに、無数のカウンターが設置されている。

 それは、少し遠くから見ると。星の瞬きようにも思えるけれど、それぞれのカウンターは、9から1までを繰り返し、0のときには、ただ暗くなるから、黒に見える。

 そのそれぞれのカウンターの数字が変化していく速度も違うから、とても早く変わっていくところと、なかなか次の数字にいかない場所もある。全体をぼんやりと見ていると、ちょっと眠くなるような感じにもなるし、そうやって、個々のカウンターに注目すると、その違いが気になってもくる。

 常設展も、大体が企画展に合わせて会期が決まっているから、今回、こうして紹介してきた展示も、おそらく全く同じように作品が並べられることはないはずだ。

 だから、終わってしまった展示を書いても、それを読んでもらって、興味を持ってくれた場合にも、もう同じ展示を見ることはできない、と思う。

 それでも、東京都現代美術館の常設展示は、これからも収蔵作品は増えていくはずだし、そして、今回も、前回も期待を裏切らない新鮮な展示をしてくれたので、まだ見ていないことに対して何かいうのは難しいとしても、次の常設展も、きっと、いつも同じではなくて、テーマを掲げて、まるで企画展のような展示が見られると思っています。

 だから、もし、興味を持ってくれた人がいて、東京都現代美術館に行くことがあったら、常設展を鑑賞する時間も、できたら長めにとってもらえても、その時間は豊かになると思っています。

 そして、常設展の最後に、宮島達男の作品があるのが、おそらく変わらないのは、かなり巨大で重量もありそうで、場所を変えるだけでも大変そうだからだけど、変化のある常設展の後に、いつも同じ作品が見られる気持ちよさは感じるので、ずっと、この場所にあることも嬉しいように思います。




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おちまこと
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