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終末。時のしるしを知りたければ、己の中にある神の心、愛に聞け

やはり、自分の話はあまりに複雑、難し過ぎるのかもしれない。しかし解る人には解ると信じてるし、解る人がいなければ話してる意味がない。あらゆる神秘主義に精通してるフリーメイソン33階級ぐらいの人なら、おそらく自分が話してることの意味は解ると思う。

そりゃ確かにそうだ、その認識の人達に真実を伝えようとしてるわけだから、その位の知識の中にいる人にでなければ話が通じるわけがない。しかし、例え自分の話を知ったとして、そういった人達が今すぐ悔い改める事ができるかと考えれば、そう簡単ではない。

 
誰にも解らない領域だからこそ覚りであり、それを知るのは確かに並大抵ではないと思う。自分は繋がりを解っているから、自分自身が何を話してるのかはしっかり理解し、何を話しているのか自覚を持っているが、突然に愛と覚りと欲望は三種の神器と同じ意味、概念である、なんて話を別な人が聞いても、詳しくその繋がりの理由や意味が解らないなら何を言ってるのか、確かに解るわけがない。



たとえ、それを何度もここで説明しても、それ以外の繋がりなどが解らなければ言ってる事の意味が繋がることもない。単純に言葉だけを受け止めるなら、映画の作品のタイトルだけを見て、あとは内容を想像しろと言われているようなものだと思う。

難しい、これを簡単に説明するのは。心の中の天秤と表現してもパッとしない。どう説明しても意味は理解してもらえない。

簡単にとは、どう説明したらいいのか。自分の使ってるロゴは三位一体の意味があり、三種の神器や契約の箱、脳科学を基本に、左右の目と松果体の交差、色彩論、女神テミスの概念やフリーメイソンの自由、平等、博愛、そのフランス革命とニューヨークの自由の女神のコンセプト、トリコロールの意味とも同じ意味を持つ。これが愛と覚りと欲望のバランスを保つ沈黙の天秤として表現してるもの。




しかし、そう言っても簡単には理解できないと思う。それは自分が話してる陰謀推理論も同じで、これを知ってもらうためには、なぜそうなるのか、その理由や繋がりを簡単に説明する必要がある。

自分が話してる陰謀推理は自分の知恵、知識からのもの、それと神学はまったくの別物。それでも、この2つは切っても切れない、両方の見解を知らなければ物事の辻褄が合わなくなる。物質主義と神秘主義も表裏一体であるため、両方を交えて話す必要がある。

陰謀推理論については自分の頭で考え、インターネット上にある情報をパズルのように組み合わせプロファイリングした結果の話であり、それと対極としてある神学は自分の中から導き出した神秘的な感覚からのもの。心と頭で考えたものとする違いがある。その二極を引き合わせるものが覚り。

確かにこんな話をして誰が理解できるのか、まるでカルトのように見えるかもしれない。しかし自分でもそれは承知の上、覚悟の上で話してること。とにかくこれは知恵と神秘的な感覚両方無ければ成り立たない領域。

別な記事でも言ったが、陰謀論と聖書に書かれてる事は表裏一体であり、表の見解が聖書とすれば裏の見解が陰謀論となる。

キリスト教に反するグノーシス主義者が使うのが陰謀論。聖書とは真逆にある、書籍として残されてるなら闇書とでも言おうか。

聖書においては戒めとなる預言は、陰謀論にとっては救いとなる意味となり、それを自作自演して実現する事が、彼ら悪魔崇拝者であるオカルティスト達にとっての信仰になる。

同じ意味としてあるプロパガンダ、ナチスヒトラーが使った10の大衆煽動が裏とすれば、神との約束となる十戒は表となる。その2つはまったくの真逆として教え広められ使われてきたもの。


十戒


いくら自分がこんな話をしてもそう簡単には理解ができるものじゃない。自分が話す内容は世界三大宗教を信仰してる聖職者にすら理解はできない。仏教の賢い修行僧にも解らないような内容。

ではなぜそんな話をしなければならないのか、何故なのか、なぜ自分はこんな話をしているのか。話さなければならないとする意識を持つのは何故なのか。


自分が話す内容を把握するよりも大事な事がある。それはまず心で感じること、言葉の意味を理解しようとするのではなく、心で感じる。どんな物事でも、知恵があれば誰でも理解できるし、知恵のためだけならWikipediaだけでも一心不乱に読み漁っていれば充分得られるが、心で感じる神秘的なものは知恵では理解できないもの。

心で理解するとは、愛に聞くと言う意味であり、それを自分は今、神の心、そのアカシックレコードにアクセスすると表現する。

全てを知っている万物を見渡す目に聞けば何でも教えてくれる。何かを知りたいなら、全てを知りたいなら神に聞けばいい、単純に、簡単に説明するならこういった表現になる。

愛は嘘などつかないと言ってるのは、それが神の心だから、嘘などつくわけがないとする意味であり、全てを知りたいなら自分の中にある神の心に聞けと言っている。


これは間違いないこと、最初に自分が覚った事であり、自分のイメージとして見た最初の感覚、イエスキリストから教わったこと。それを如何わしく思うならそう思ってもいい。しかしこれは事実であり真実、嘘偽りなき愛からの教え、間違いなくイスキリストが教えてくれた宇宙の記憶の開示方法、現代風に言えばアカシックレコードへのアクセス方法と表現する。その言葉はニューエイジ系の神秘主義者ルドルフシュタイナーが考えた言葉だが、そう表現した方が解りやすいと思った。

時のしるしを知りたければ、己の中にある神の心、愛に聞けとイエスキリストは言っている。しかし自分がキリストがこう言っている、と表現すると如何わしく感じると思うので、別な言い方をすると、やはり神の心である、自身の中にある愛に答えを聞け、といった表現方法をする。


いくら自分がこんな話をしようとも、カルト宗教などやるつもりもないし、そもそも宗教はやらないし属さない。自分には信者などいないし、募るつもりもない、弟子も必要なければ仲間もいらない。教会など運営しない、XなどのSNSで数字など増やすつもりもないし、誰かを洗脳支配するつもりもなければ、これによって世の中をどうこうしたいなんて野望もない。メサイアコンプレックスなど持っていない、自分の願望を強いて言うなら、たった1つの十戒の石板の片割れ、その魂と結ばれる事だけ、それ以外は何もいらない。


あと、YouTubeに関しては楽しみのためにやってるので、そちらはなるべく視聴者はいてもらいたいとは思う。陰謀推理論や神秘的な話は殆どしない、やることは自分が楽しめること、誰かがそれを見て楽しんでくれたり笑ってくれたりしたら良い。あそこでは、今noteに書いているような内容は語らないし、今後それをやるつもりもない。


他でもブログを書いてはいるが、もうしばらく他は更新していないし、消したもの、別な用途のために使ってるものもある。このnoteが一番使いやすく書きやすいので、ここにひたすら綴っている。


TwitterXに関しては、もう見る必要もないのかもしれない、もうあそこは自分に適する世界ではなくて常に憤りと嘆きを持ち続けさせられる場所になってしまった。見るもの見るもの全てに憤る場所。

あそこでフォローやフォロワーを増やすつもりなど更々ない。あそこでアカウントを残すなら常に、いつまでも0を維持し続ける。Xによる理不尽な数字カーストシステムには従わないし参加したくもない。


重苦しい話ばかりしているが、自分だってそんな話ばかり続けるつもりなんかない。必要なことしか言わない。

楽しむためなら、別な話をする、たまには面白い話、多彩な表現方法を駆使して面白い内容を書きたい。それがいつできるのかは解らないが、気が向けばそんな内容を書くとは思う。喜怒哀楽を素直に表現し、羞恥心など持たずに素直な言葉と表現方法で、何かを作りたい。


自分も気が向いた時に書きたいし、読み手も、気が向いた時に読んでもらいたい、たまたまの感覚で読んでほしいと思う。



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