身体で考える 身体で創作する
アメリカの底辺高校が、授業前にキツ目のランニングをする習慣を義務付けたところ、全米で1位の成績になったらしい。「脳を鍛えるには運動しかない!」という名著に書いてあった。それから「賢くなりたい」と言ってくる人には「走ったらいい」と返している。スマホ脳の著者のアンデシュ・ハンセンも運動を推していて、脳トレパズルには科学的根拠がないが、運動をすれば認知機能があがるという科学的根拠があると書いてあった。賢くなるには、本を読んだりパズルをするよりも、ランニングをしたほうが良い。
僕の体験を書くと、こういった文章が頭に浮かんでくるのは「散歩中」「瞑想中」「体調の悪い時」が圧倒的に多い。逆にそれ以外の時間に文章が浮かぶことはほとんどない。確か「インサイド・ユアセルフ」という瞑想の本に書いてたのだけれど、著名人に「クリエイティブなアイデアの出るタイミング」をインタビューしたところ、散歩中とシャワーの最中が多かったらしい。リラックスした受容的なタイミングが良いんだろうか。もちろん瞑想中も多い。あとカフェインを飲むと脳が興奮して、言葉をたくさん分泌するようになる。
ここはデカルトの「我考える故に我あり」を批判していると思うのだけれど、デカルトの帰結である「精神至上主義」も批判している。現代人は、多かれ少なかれ精神至上主義なんじゃないだろうか。肉体は「道具」として考え、知性的な活動をするのは「精神」及び「脳」だと考えている。しかし脳も身体の一部なのであり、脳は神経によって身体全体と綿密な連絡を取り合っているのだから、脳だけが重要というのは偏見だ。手にも神経があるし、足にも神経がある。人間は全身の神経によって考えている。全身の「身体の状態」によって「精神」は言葉を生み出す。胃が悪いと鬱っぽい状態になる。カフェインを飲むと興奮した状態になる。
インドの聖人や仏教の瞑想指導者が「食べ物」にまで口を出すのは「迷信」だと思っていたのだけれど、実際に食べるもので「考えること」は変わると思う。ドラッグ、アルコール、カフェインなどで「考える内容」は変わるので、当然と言えば当然だが、盲点だった。ヴィーガンをそういう視点で考えるのも面白いかもしれない。
村上春樹は、毎日1時間のランニングを日課にしているという。カントやキルケゴールやニーチェの散歩癖は有名だ。
「年譜 宮沢賢治伝」という本に宮沢賢治が職員室で急に踊りだして、何の意味かね、と職員が聞くと「音楽は一つもおなじものがないから、おどりだっておんなじってわけはない。これは体にリズムをつけるんで、それが詩をかくリズムになるんだ」と答えられたというエピソードが載っていた。賢治は身体が創作するということを知っていたのだと思う。宮沢賢治の特異な体質は「性的な禁欲主義」「菜食主義」にも支えられているのかもしれない。
「コンセプチュアル・アート」というのは「大いなる理性」である身体を無視して小さな「われ」で創作をするので深みがなくつまらないのだと思う。精神だけでこねくりまわしたものは創作とは言えない。身体の状態を整えて、身体の声に耳を澄ますのが創作であると思う。
「大いなる理性」である身体ではない「僕」にできることは「状態を整えること」だけだ。運動をして、瞑想をして、音読やダンスでリズム感を身体に刻み付ける。良質な詩を多読、音読して、語彙や詩の技法を脳に刻む。人と会話をして、美しい風景を見て、身体に刺激を与える。そうしたあとにカフェインを飲んで目を瞑り瞑想をすると、勝手に詩の言葉が浮かんでくるので、それを写し取る。作為的に詩を書こうとしても上手くいかなかったので、こういう方法で詩作してみようと思う。
身体というかまどに様々な材料を放り込んで、偶然に良いものができるものを待つイメージ