げんにび
まとめ
試論
詩歌
アレ
箴言集
アメリカの底辺高校が、授業前にキツ目のランニングをする習慣を義務付けたところ、全米で1位の成績になったらしい。「脳を鍛えるには運動しかない!」という名著に書いてあった。それから「賢くなりたい」と言ってくる人には「走ったらいい」と返している。スマホ脳の著者のアンデシュ・ハンセンも運動を推していて、脳トレパズルには科学的根拠がないが、運動をすれば認知機能があがるという科学的根拠があると書いてあった。賢くなるには、本を読んだりパズルをするよりも、ランニングをしたほうが良い。
母親が死んだ時に泣かなかった。祖母に「泣きなさい」と言われたけれど、泣かなかった。後に瞑想をしているときに、一気に悲しみが噴き出てきた。祖母が正しかったのだと思う。 ASDの特徴なのか、家庭環境なのか分からないが「良い子でいなければならない」という観念が強く、わがままを言うことや甘えることや怒ることがあまりなかった。親に甘えた記憶がほとんどない。そういった飢餓感が幼い頃から絶えずあったと思う。寂しいという感情が常にあった。今でも詩を書くと、孤独をモチーフにしたものが圧倒
日本の近代文学は、何か滑稽なところがある。三島由紀夫は今ではイジられることが多いし、太宰も芥川もなんかダサい。三島由紀夫が一番ダサいと思うが、詩の勉強をしていて思うところがあった。 明治維新と太平洋戦争の敗戦の2つにより、日本は西洋を崇拝することになった。詩歌の歴史の本を最近読んだのだけれど、日本はもともとそういう国民性らしい。平安時代は中国を崇拝していて、男は漢字しか使わなかった。紫式部が平仮名という低俗な文字を使って物語を書くが、よそ行きの「漢字」よりも普段着である
現代の若者を苦しませている観念は「特別でありたい」という観念であると思う。どこからこの観念はやってきたのか。 狩猟採集民の最大値は概ね150人程度だという。人類の言語は「噂話」を発達させるためという説があるが、噂話で「顔見知り」になれる限界が150人らしい。現代の会社や学校などの集団にも当てはまり、最大で150人を超えるとすべての人を把握するのが難しくなる。 僕の学年は100人程度だったが、確かに全員顔を覚えていた。そしてその100人の中で「ユニークな個体」として認
「身体はトラウマを記憶する」という名著がある。生理学的、解剖学的にどこにどうやってトラウマが保存されているかの機序は大雑把にしか分かっていないようだが、ポリヴェーガル理論という理論が臨床では使われているようだ。外傷体験をすることで、交感神経が過敏になり、筋肉が緊張状態になる。これはスピリチュアル系の言説でも昔から言われていたことで、エックハルト・トールはこれを「ペイン・ボディ」と呼んでいた。 「トラウマをヨーガで克服する」というのも良い本だったが、ヨーガのポーズによって身
僕は罪悪感がとても強い。地獄なんか信じてもいないのに、少し倫理的に悪いことをすると「地獄に堕ちるかもしれない」と真剣に悩んでいる時期があった。昔からそうだったから、今社会に奉仕できていないなどは関係なく、体質と生育環境の気がする。やたらと地獄が怖かった。人に父親の話をすると「それは自己肯定感が低くなっても仕方がない」と言われたので、発達障害について親に叱られすぎたのが原因なのかもしれない。 自分で詩を書くと、罪のモチーフがやたらと多かった。4年前に書いた短歌。 呼吸
「退屈」というのは人間の本質であると思う。哲学者や文学者がよく題材にしている。最近でも日本の教授が本を出しているし、パスカル、キルケゴール、ショーペンハウアー、ハイデガーなどが言及している。特にショーペンハウアーとパスカルは秀逸だと思う。 人間の不幸は部屋の中にじっとしていられないことに由来するというのは、本当にその通りだと思う。初めて読んだ時の衝撃が未だに忘れられない。 ピーター・トゥーヒーという人や小谷野敦という人の退屈を主題にした本を2,3冊読んだのだけれど、
お坊さんが法話で「お経というのは仏様の話じゃなくてあなたのことが書いてるんですよ」と言っていた。確かにそうだ。般若心経には「この俺」が「色即是空」であることが書かれてある。お経というのは訳の分からない漢字の並びではなく、「この俺」の真実が書いてある。 東南アジアの仏教の原点回帰運動で、「法話だけで悟らせる」というのがあるらしい。アドヴァイタというヒンドゥー教にも「法話を繰り返し聞いて悟る」という伝統がある。修行をしなくても「情報を得る→悟る」ということが可能であるらしい。
「天使」という言葉をよく見かける。僕の世代だと、エンジェルビーツというアニメを見たオタクのミームに「天使ちゃんマジ天使」というのがある。近い所だと「NEEDY GIRL OVER DOSE」の主人公は天使だ。インターネット・エンジェル。 なぜ天使なのか。僕は詩を書いていても、よく天使という言葉を使う。「天使」に猛烈に魅かれる人は多いんじゃないだろうか。最近ではサブカル系の女子が「天使界隈」というファッションをしているらしい。 天使というのは「中間」である。人間と神との
よく幼い頃から「優しい」と言われてきた。お人好しだと思う。でも内心では「良い人と思われたいからやっているだけ」とも思っていた。本当の善意なんか今まで一度もなかったかもしれない。だから善導の「三業を起すといえども名づけて雑毒の善とし、また虚仮の行と名づく」この雑毒の善という言葉が凄く腑に落ちた。 僕の周りはやさしいひとがたくさんいる。やさしすぎて、誰にでも体を許したり、毎日かかってくる電話を断れずにノイローゼになったりしている。多分「やさしい」には2種類ある。「嫌われるの
僕が不思議に思うのは「存在していること」「言葉が伝わること」なのだけれど「見えること」も不思議に思う。哲学の言葉で言えば存在論、言語論、認識論になると思うけれど、知識の認識ではなく、この今目の前にあるものが知覚できるということがよく分からない。未だに「知覚」のメカニズムがどうなっているのかよく分からないのに、自分や他人が普通に生きているのもよく分からない。一回ゆっくり考えてみたかったので、書きながら考える。 マインドフルネスをしていると、全ての物が「生命」に見えたり「心
「蜘蛛女のキス」という小説は面白い設定で、2人いる登場人物の1人が自分の見た映画の思い出を監獄の中で語っていくという小説なのだが、その中の映画に「異様に美しいナチスのプロパガンダ映画」というのがある。僕は映画に疎いのだけれど、ディズニーの反ナチズムの動画は見たことがある。ドナルドダックがナチスにこき使われるという風刺映像だった。こうやって美や娯楽で思想を吹き込むのは効果的だろうなと思う。「啓蒙思想2.0」というとても良い本があるのだが、著者は人間は理性ではなく感情で動くもの
中原中也が好きだった。久々に彼の詩集を読むと「何か違うな…」と思った。感傷ばかり書いていて、こういった詩よりも谷川俊太郎や田村隆一のような、哲学を歌うような詩のほうが自分の好みに合っているのだと思った。 けれど、読み進めるうちにやっぱり中原中也が好きだった。なぜだろうと考えると、リズム感が素晴らしく良い。全部すっと入ってくるリズム感で、文字面を追うだけで心地よく響いてくる。宮沢賢治は自然ばかり歌っていて、僕は情景をイメージするのが下手なのに、恐ろしいほど心に響くからなぜだ
「自分のために創作をする」という人もいれば「他人のために創作をする」という人もいる。体質なのだと思う。自分の表現欲求やフェティシズムを充たしたい人であれば、自分のために創作をする。承認欲求に創作を従属させている人や、共感が欲しいという人は自己/他者のあわいに存在している。他人のために創作をするという人は、自己の作品で他人を喜ばせたいという利他の気持ちで作品を創っている。 ここに書いている文章は、思考の整理のため、あとは自己の思考が他人のためになればいいなと思って書いてい
ニヒリズムって一体なんなんだろうか?この世は虚しい、生きている価値はない。究極的な価値がなくても、人生を肯定するか否定するかの選択肢はある。 僕は以前までかなり否定的だったけれど、最近になってようやく生きていることを肯定できるようになった。病や老いなどが重なると否定的になるのかもしれないが、今のところはまだ大丈夫そうだ。僕は極端に否定的だったし、今はかなりの程度肯定的なので、比較して何が変わったのか書き記したい。 変わったのは「思想」ではなく「重さ」と「色彩」だ。思想
以前の記事でも少し触れたが、ラリー・ローゼンバーグの「死の光に照らされて: 自由に生きるための仏教の智慧」という本が10月の初頭に出たので購入して読んだ。 マインドフルネスブームが収束したのか、最近はあまり瞑想についての本が出ないから楽しみにしていた。来月にもマインドフルネス認知療法に携わっている方の「マインドフルネスの探究: 身体化された認知から内なる目覚めへ」という、仏教から一歩引いた目線で、マインドフルネスにのみ焦点を当てて悟りを語るっぽい本が出るので楽しみだ。